春を待って、咲く華
萩原かるかろどん
第1話 スノウドロップ
――それにしてもマスター、いい男だわぁ。
時は2025年の5月の夕暮れ、午後19時頃。この時間の喫茶店「すのうどろっぷ」は、客が来ない。
それをいいことに、アルバイトの北山心春は、掃除をするふりをしながら、店主の矢上亘を盗み見ていた。
心春は矢上が好きだった。
しかも、LikeじゃなくてLoveのほうの「好き」である。
高校時代には、そのピンクブラウンの髪と底なしの行動力から、神居の
原因は、交際相手だったサッカー部のエースくんの浮気。
爽やかな好青年だった彼の、意外にクズな一面が、心春の心をずたずたにした。
――何が「キスさせてくれなかったから寂しかった」だ!
そんな理由で七股かけるんじゃないわよ!
あと一股で伝説の大妖怪じゃん!
この性欲バカバカバーカ!!
男が信用できなくなった心春は、高校から大学三年までの青春まっ盛りを、色恋の「い」の字もないストイックな学生生活で過ごしてきた。
そんな彼女の目を覆っていた偏見の壁を壊し、♡マークを添えたのが――『すのうどろっぷ』のマスターだった。
一目惚れしたその日から、心春は矢上から目を離せなくなった。
まず何より――顔がいい。
北欧系の血が混じったような、若い頃のヒュー・ジャックマンを思わせる端正な目鼻立ち。
灰銀色の髪と整えた顎髭が醸し出す野生さと品の良さは、もう犯罪的ですらある。
これだけ外見がいいのに、マスターは料理の腕も天才的だった。
海鮮問屋の長女として生まれた心春は、子どもの頃から両親によく料亭や高級レストランに連れて行かれた。
そんな名店の板前やシェフと比べても、矢上の腕前はまったく遜色がない。
それだというのに――。
こんな素敵なマスターの素敵なお店には、今日もでっかい閑古鳥が居すわっている。
心春が「すのうどろっぷ」で働きはじめて、もう十一ヶ月。
これまでに見かけたお客さんといえば……
年齢も性別もよく分からない、自称作家の百地さん。
夫婦でいつもペアルックの、還暦を越えてもラブラブな華僑のヤン夫妻。
プロレスラーみたいな体格なのに、趣味はぬいぐるみ作りのアメリカ人、アレックスくんとか。
名前も知らない、フランス人形みたいに可愛い白人の女の子とか。
国際色豊かで個性的な面々だが、全員合わせても両手の指で数えられちゃう。
「すのうどろっぷ」で扱っているコーヒー豆や茶葉、食材は決して安くない。
この客数と売上でやっていけるのか――そう考えると、経済学科に通う心春は不安でたまらなくなる。
もしお店がつぶれたら、マスターとの接点が消えちゃう!
そんなの、耐えられない!
「心春ちゃん、手が止まっていますよ」
「は、はひーっ! ごめんなさいっ!」
驚きのあまり、モップを落とし、バケツを倒しかけた。
この人、頭の後ろに目でもついてるんだろうか?
さっきまで仕込みをしながら、一度もこっちを振り返らなかったのに――!
「今日はあまり仕事に身が入らないようですね。今度、サークルにテレビの取材が来るのが気になるのですか?」
「は、はい、そうなんです……」
――まさか、「マスターのおひげがいつもよりセクシーで、見惚れてました」なんて言えるわけがない。
……そして、全部が嘘ってわけでもない。
心春が所属している料理研究会「Stella Kitchen」は、在籍者百名を超える巨大サークルだ。
文化祭では毎年長蛇の列ができ、OBの中にはミシュラン店のオーナーもいるという、由緒正しく格調高い課外活動である。
その「Stella Kitchen」に、有名グルメ番組『晩ごはんラッシュ!お宅の食卓!』から取材の申し込みが来たのが、二か月前。
以来、心春は四年生のベテランとして、番組に出す料理の試作に睡眠時間を削ってきた。
「私はあまり日本のサークル活動には詳しくないのですが……もっと同級生や後輩たちに頼ることはできないんですか?」
「四年生たちはみんな就活で忙しいんですよ。その点、あたしは卒業後、実家の会社に入るのが決まってるから、時間に余裕があるんです。だから、ちょっとくらい夜更かししても平気!平気!」
目の下にうっすらと隈を作りながら、にへらぁと笑う心春。
そんな彼女を見て、矢上は静かにキッチンのほうへ向き直った。
「……少し頑張りすぎて、頭に糖分が足りなくなっているかもしれませんね。まかないのデザートがありますが、食べますか?」
「食べます! 食べます! ごちそうになります!」
ちなみに、若者の健康と栄養状態に強いこだわりを持つ矢上は、いつも六時ごろに心春へまかないを出している。
今日の晩ごはんは、余った食材で作ったトルコ風ピザ――ピデ。
ざっくりもちもちの生地と、とろけるチーズが奏でるハーモニーは、思い出すだけでよだれが出そうだ。
そのうえデザートまで食べられるなんて、めっちゃ超ラッキー!
早くもエプロンを外し、席に座った心春の前へ、矢上は湯気の立つカフェオレと、キューブ状のデザートをそっと置いた。
「新メニューの試作品です。よかったら、食べたあとに感想を聞かせてください」
「これは……なんですか?」
「当ててみてください」
心春はフォークでそのキューブを突き刺し、首をかしげる。
表面はキャラメルで固められた香ばしいアーモンドに覆われていた。
口に入れて噛みしめる――。
「……やわらかい!」
グミのような心地よい弾力が、歯を楽しませる。
舌の上に広がるのは、桜の香りを帯びたやさしい甘み、ほんのりとした塩気、そしてコリコリした小豆の歯ざわり。
桜餅に似ているようで、まるで別物の食感。これは――!
「ロクムですかっ!?」
「ご名答。さすがですね」
別名ターキッシュデライト。
心春がさっき食べたピデと同じく、矢上が最近はまっているトルコ料理のひとつだ。
「トルコのデザートは、日本人の舌には少し甘すぎます。そこで桜餅を参考に味を調整し、ナッツやドライフルーツの代わりに小豆を加えてみました。カフェオレと一緒に食べてみてください」
心春はもうひとつロクムを口に運び、カフェオレをすすった。
「……溶けゆぅ――!」
トルコにはカフェオレを飲む習慣はない。
だが、この和風ロクムは、コーヒーとミルクの苦味とまろやかさに溶け合い、口の中で味わったことのない旋律を奏でた。
「めっちゃ合う! いや、これ多分、抹茶にも合いますよ! マスター、大発明です!」
「舌の肥えた心春ちゃんにそう言ってもらえるなら、まずは合格点のようですね」
勿体ないなぁ、とフォークを噛みながら、心春は思う。
和風ロクムは、高級レストランの品書きに並んでもおかしくない完成度だ。
「すのうどろっぷ」の他のメニューも、同じかそれ以上に素晴らしい。
だからこそ、もっと多くの人に知ってほしい――心春はそう願っていた。
「マスター、やっぱりお店の宣伝しましょうよ! このままじゃ、潰れちゃいます!
ホームページやSNSの広告ぐらいなら、あたしが大学の勉強の代わりに、タダで作りますから!」
「ありがたい申し出ですが……遠慮しておきますよ」
マスターの返事は、やはりそっけない。
「この店は、私の趣味でやっているものです。急にお客さんが増えては、常連に迷惑がかかります。
それに、お金の心配は無用ですよ。ほかにも収入がありますからね。
君にアルバイト代を払って、このささやかな店を続けるくらいは、問題ありません」
――それじゃあ、あたしの“推し”の素晴らしさを世界に布教できないじゃないですか!
心春は心の中で叫んだ。
まったく、このマスターときたら。顔も料理も人柄も完璧なのに、経営だけは大学の講義で習う「やってはいけないこと」ばかりやる!
この店は繁華街から外れた住宅街の一角にあるくせに――
宣伝しない!
チラシも出さない!
それどころか、看板すらない!
店の前にあるのは、「雪待ち花(スノウドロップ)」の絵が描かれた一枚の絵だけ。
心春も、昼飯を逃したある日、漂ういい匂いに誘われてふらりと入らなければ、ここが喫茶店だとは思わなかっただろう。
そのとき、マスターに一目惚れし、出されたオムライスを食べて体に電撃が走った。
即座に「ここで働かせてください!」と申し出たが、人手は足りていると断られた。
頭を下げてもダメ!
土下座してもダメ!
最後には、五体投地して“陸にあがったサケ”の真似をして、ようやく雇ってもらったのだった。
ものすごい同情と憐れみのこもった目で見られた気もしたが――
恋する乙女は、負けない!挫けない!諦めない!
それ以来、心春は一年近く、想い人と同じ職場で夢のような時間を過ごしてきた。
それでも、時折マスターがひどく遠く感じるときがある。
まさに今のように――。
デザートをつつきながら、心春はそっと相手を見た。
矢上は手を止め、壁にかかった一枚の絵を見つめている。
店の外で看板代わりに飾っているのと同じ、雪待ち花の絵だった。
まるで、二度と戻らない青春を懐かしむ老人のような眼差しであった。
その横顔を見ていると、心春の胸はきゅうっと締めつけられる。
――あたし、マスターのこと、何も知らないんだなぁ。
そう思い知らされる。
彼がどこで生まれたのか。
どんな学校に通っていたのか。
家族はいるのか。
結婚しているのか――それすらも。
それでも、振り向いてほしくて。
少しでも、自分を見てほしくて。
心春は、ずっと胸の奥にしまっていた疑問を口にした。
「……どうして、『すのうどろっぷ』なんですか?」
「――え?」
思いがけない問いに、矢上は珍しく、ぽかんとした顔を見せた。
「……どうして、お店の名前を『すのうどろっぷ』にしたんですか?」
矢上は少し考えてから、静かに答える。
「大した理由じゃありません。店を開くとき、良い名前が思いつかなくて……そのとき、友人が残してくれた絵が、たまたま目に入っただけです」
――嘘つき。
心春は思った。
マスターが「友人」と口にしたとき、浮かべた表情はそんな軽いものじゃなかった。
心春は矢上の視線を追い、壁の絵を見つめる。
それは、優しく、美しい水彩画だった。
繊細で雄弁な筆が、雪の中に咲く、白い鈴のような花を描いている。
店の外にある絵は、夕暮れ時の花。
中にあるこの絵は、朝焼けの花。
雪と花弁に反射する光の違いで、同じ花のまったく異なる表情を見事に描き分けていた。
これを描いた人は、きっと鋭い観察眼と優れた感性を持っていたのだろう。
そして、恐らく――女性だ。
心春の女の勘がそう告げていた。
「……どんなお人だったんですか?その、ご友人さんは」
おそるおそる尋ねると、
矢上は目を閉じ、囁くように言った。
「亡くなりましたよ。遠い昔にね……」
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