第11話 熊狩
南門を出たのは朝露が乾ききる頃だった。
街道から外れて、西の小高い山に向かう。
一昨日から続いた出来事は、一息ついたと言えるのだろうか。
ネルセンはなぜいまさら国がクィヴェラ族を必要とするのか、その理由までは明かさなかった。
落ち着いてから行政庁で改めて話をしたいという、その段取りも理屈は通る。
行政庁がクィヴェラ族の保全に動き、それを察した迫害主義者のギデオンが、独断で虐殺を企てたというのはあり得ない話ではない。
だが、実際に奴と行動をともにした俺とアルヴィンには、どうにも腑に落ちない点がある。
続けざまの依頼もあって、あまり情報が整理できていない。
そこに、先ほどのリュティスとのやり取りが加わる。
リュティス――
クィヴェラ族の皆も『リュティス様』などと呼んでいるのを耳にする。
あれがクィヴェラ族にとってどれほどの意味を持つのか、まだ俺は知らない。
けれど彼らの俺を見る目は、リュティスに向ける眼差しに近いものを感じていた。
どうせいま考えても答えは出ない。ひとまず依頼に集中して、さっさと家に帰って話をすればいい。
頭ではわかっているつもりだが、どうしても釈然としない気持ちが湧き出てくる。
目的の洞穴は山の斜面を越えた先だ。
考え事をしていて虚をつかれるほど間抜けなつもりはない。
目の前のことだけを考え、ゆるやかな斜面を上る。
洞穴に近づくにつれ、物騒な魔物の気配が肌に刺さる。
坂を上りきり、視界が開けたところで岩肌の薄闇に巨体が見えた。
何度か狩ったことがあるが、力押しで勝てる相手ではない。
乾いた擦れ音が、途切れ途切れに届く。
奴は洞穴の奥に頭を突っ込んでいるが、手元までは見えない。
まだ弓も届かぬ距離のはずだが、動きが見えた。
殺気が漏れてしまったか。俺は歩みを止めず、前に進む。
低い唸り声が腹に響き、凶悪な獣は笑うように牙を剥く。
――来る。
俺は斜面を駆け下りた勢いを無理やり押さえ込み、籠手で力を歪ませて右前方へ飛ぶ。
飛び込んできた獣が振り下ろした前脚が大地を貫き、土塊が舞った。
すれ違いざまに刃を振るうが、距離が離れすぎて空を切る。相変わらず御し難い
振り向くと、巨体はすでにこちらを向き、身を低く沈めていた。
襲い来る
だが、堅すぎる毛皮に阻まれ、耳障りな音とともに刃が弾かれてしまう。
仰け反った巨体が痛みに抗うように咆哮した。
俺は再び、
瞬時に懐に潜り込み、首に
いまの一撃に手応えはあった。しかし焦らず、一度距離をとる。
身体を捻り反撃の体勢をとっていた奴は、俺が踏み込んでこなかったことに不満げだ。
こいつはこういう狡猾なところがある。もしいま踏み込んでいたら、怪我では済まなかっただろう。
荒ぶる巨体が地を掻き、咆哮とともに土砂を散らす。
俺は今日一の魔力を
籠手が焼けるように熱を持つ。負荷の蓄積が腕を軋ませる。
歪む力を斜め上へ束ねて宙に跳ぶ。
落下に合わせ、首元へと渾身の力で
確かな手応えがあった。乾いた薪を折ったかのような音が響き、
完全にバランスを崩した俺は、
地面に投げ出された衝撃もさることながら、籠手の中で疼く腕の痛みに顔をしかめた。
魔力焼け用の軟膏を薄く塗り広げ、籠手を戻すと大きく息をついた。
しばらくして、息が整ったところで素材の回収へと移った。
森で遭遇した
肉は不味く、素材もほとんど価値がない。
強いて言えば
だが、
内側から刃を入れる箇所を選び、丁寧に剥ぐ。堅い毛皮にナイフも悲鳴を上げる。
こいつは肉も食える。硬めで特別うまくはないが、良質な部位だけなら持って帰る価値はある。
鞄から携行用の小型保冷盤である
腕の痛みに再度顔をしかめつつ、肉と一緒に布で包んだ。
袋に入れて
目的は果たした。引き返す前に、残った死体を焼き払おうとした――そのとき。
ふと戦闘前の光景が頭をよぎる。そういえばあいつ……洞穴で何をしていたんだ?
✣
その場の片付けを終え、足を忍ばせて薄暗い洞穴へ近づく。
この洞穴は
中は湿った土の匂いが濃く、暗く静まり返っていた。
もとはもう少し奥行きもあったのだろうが、年月が経ったいまは数歩で奥まで行き着ける。
風も水音もない。壁の泥がまだ湿っていて、爪で抉ったような跡が残っている。
目を凝らすと、小さな横穴があった。俺の腕より一回り大きい程度のその穴がやけに気になる。
慎重に覗き込むと、白い塊がわずかに動いた。
――細長い胴に短い四肢。小さな丸耳、尖った鼻先。
酒瓶ほどの体長で、尾は体の半分ほどの長さ。
真っ白な毛並みは泥に汚れ、脚と腹部に傷を負っている。
動きは鈍く、俺が手を伸ばしてもかすかに息づくだけで、逃げる素振りも見せない。
持ち上げると、果物ほどの重さしかなかった。
「……魔物なのか?」
魔物でも人に敵対しない種は存在する。こいつから敵意は感じない。
だからといって、魔物であればわざわざ助ける理由もない。
一部の物好きが魔物を飼うと聞いたことはある。
しかし、決して一般的ではない。研究のため捕らえる例もあるが――。
心の奥で、こいつを助けろという声がした。
依頼を受けたときのあの胸の奥の波紋は、このためだったと言わんばかりに。
「ったく、らしくないことばかりで嫌になるな」
声に反応したのか、小獣の閉じられていた瞼が薄く開く。
露わになった瞳は琥珀めいた金色をしていた。
思わずため息を漏らすが、すぐに決心してこの場でできる限りの処置を始める。
最後に、持っていたきれいな布で傷を押さえて軽く固定する。
そっと抱え直すと、俺は洞穴を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます