第2話 深夜徘徊②
「⋯⋯⋯え?」
『お姉さんと、遊ぼうよ』
彼女の言葉が脳の中で反芻する。
今この人は、なんて言った?
身体が硬直して、動けない。
もう一度彼女のことを上から下まで見直してみる。
まず目を引くのは、ショートパンツから覗かせる真っ白な脚だろう。
女性としてはかなり長身なだけに、惜しげもなく晒されているその脚は、はっきり言って目に毒だ。
視線を上に上げると、胸ほどに伸びた長い黒髪がキャップから垂れ出ていた。
キャップを深く被っている上に、パーカーのフードまでも被っているので顔の大部分は見えず、表情は殆ど窺えない。
はっきり言って、怪しい風貌だ。
そして、先程の彼女の言動。
(ち、痴女だ!!)
慌てて踵を返して逃げようとする。
が、走り出す前に腕を掴まれてしまった。
どうにか振り解こうともがく間に、腕を引っ張り、身体を寄せられる。
「警察に通報しちゃってもいいんだ?」
全身から力が抜ける。
僕が現在置かれている状況を考えると、警察を呼ばれてしまうのは最悪のシチュエーションだった。
それだけは避けなければいけない。
「⋯⋯⋯遊ぶって、なにをするんですか」
「なにって、楽しいこと。遊ぶんだから、当たり前じゃん」
「楽しいことって?」
「とりあえず、あたしの家に来てもらう」
「い、家!?」
耳元で、とんでもないことを囁かれる。
なにをいっているんだ、この人は。
声音は無機質なはずなのに、耳元で囁かれると、やけに色っぽく感じてしまう。
じたばたと暴れるが、全て押さえ込まれる。
どうやら力は、彼女の方が強いらしい。
「暴れないで。ほら、いくよ」
腕を引かれて、そのまま路地裏に引き込まれる。
彼女に逆らえない僕は、大人しく着いていくほか選択肢はないようだった。
手を引かれるような形で、彼女の後を追う。
路地裏から路地裏へ、慣れた足取りの彼女とは反面、僕はすでに自分の現在地すら把握できなくなっていた。
路地裏で、知らない女性と二人。
はっきり言って危険な状態だ。
目の前の彼女は前を向いていて、意識はこちらに向いていない。
隙をつけば手を振り払って、逃げ出すことくらいはできるだろうか。
しかし、ここは入り組んだ路地裏で、行き止まりも多いだろう。
ここら一帯の地理に詳しいであろう彼女に対して、土地勘がない自分が逃げ切れるとは思えない。
まさに、袋小路の状況だ。
彼女に気がつかないようにポケットをまさぐり、スマホを操作する。
ポケットの中でこっそり110番を打ち込み、あとワンタップできる発信できるようにしておいた。
背に腹は変えられない。
最終手段ではあるが、いざとなればこのボタンを押すことに躊躇うつもりはなかった。
なおも彼女は歩き続ける。
駅近くには僅かにあった人の気配などすっかりなくなり、この場には完全に二人きりだ。
どれほど時間が経っただろうか。
「ついた」
不意に、彼女が立ち止まる。
道幅がほとんどない裏路地だった。
もちろん、人気もまったくといっていいほどない。
「ここ、ですか……?」
「うん」
彼女の視線の先には、地下へと降りる階段があった。
その先には少し洒落た光沢ある木製の扉が佇んでいる。
地味な路地裏とその扉はびっくりするほどマッ
チしていなくて、まるで異世界へと繋がるゲートのようだった。
「えーと、家にいくんじゃ…?」
「ここが家」
「いや、とてもそうは見えないんですが…」
「家っていったら家だから」
「いやだって、OPENって書いてるし……」
そう、目下にある木製の扉には、『OPEN』と書かれた看板が下げられていた。
自分の家にこんな看板を掲げる輩など、どこにもいやしないだろう。
「うるさい、家だから。ほら、降りるよ」
「ええ……」
果たして大人しく着いていっていいものか。
そう考えているうちに、彼女が階段を降り始めた。
最後の決め手は、あの扉の先に何があるのかという好奇心だった。
僕は一瞬躊躇いながらも、手を引かれ、彼女に着いていく。
大して長い階段ではない。
扉の前まできた彼女は一切の躊躇なくドアノブを捻り、扉を開けた。
ポケットの中でスマホを強く握り直す。
そして、部屋の中に足を踏み入れた。
ギギギと、音を立てて扉が勝手にしまった。
慣れない照明の光に、思わず目を細める。
程なくして耳に入ったのは、怪しげながらもどこか安心感を覚える、ジャズミュージックの音だった。
室内は想像していたよりも広い。
向かって正面にあるのは長机───というよりカウンターと、横並びに置かれた赤い丸椅子だ。
特筆すべき点は、カウンターの奥にある棚だろう。
そこには色々なお酒が、ところ狭しと並べられている。ウイスキーにワイン、日本酒にビールまで────様々な種類のお酒がギッシリと詰まっていた。
その他にもずっしりと赤い本が詰まった本棚があったり、見たこともない民族人形らしき置物が点在していたりと、この場には独特の世界観が演出されている。
(バーだ……)
どこからどう見てもバーだった。
あまりにもバーすぎる。
もはやBARと書きたくなるくらいにバーであった。
席は一つだけ埋まっていて、バーテンの格好をした女性だった。
テーブルに肘をついて頬杖しながら、ゆらゆらとグラスを揺らしている。
程なくして、こちらに気がついたらしい。
ちら、と横目で見ながら、話しかけてきた。
「思ったより早かったわね。おかえりなさい、
「ただいま。客、連れてきたよ」
その返答が意外だったのか、お姉さんは目を丸くしてこちらをみた。
どうやら、今僕の存在に気がついたらしい。
「ほら、この子」
「ご苦労様────って、いやいや、どう見ても子供じゃないの……。こんな時間に連れ出してきちゃダメじゃない」
「大丈夫、十八歳らしいから」
「とてもそうは見えないけれど……」
立ち尽くす僕をよそに、二人は会話を続ける。
もう捕まえおく必要はないと感じたのか、彼女は手を離し、ちょうど真ん中に位置するカウンター席に腰掛けた。
それを見たお姉さんがグラスを置き、カウンターの奥側へと入っていく。
見た目通り、あのお姉さんがバーテンダーらしい。
僕は狐に包まれたような気分のまま、未だにその場から動くことができない。
突然の出来事の連続で僕の脳みそはすっかりショートしてしまっていた。
「やっぱり、家じゃないじゃん……」
しばらくの放心状態の後、僕はそう呟いた。
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