第22話 山を降りる日
夜の気配がまだ残っていた。
霧は薄く、光は灰のように滞っている。
火の名残が囲炉裏の底で赤くくすぶり、煙は、立ちのぼるでも沈むでもなく、空気の間に留まっていた。
ミユキは、しばらくその煙を見ていた。
火は昨日までの風を覚えている。燃え尽きてもなお、炎の形を模した灰が、ゆっくりと崩れていく。
指先で灰をつまむと、かすかな温度があった。
その温度が、名残惜しさのようで、やわらかく胸の中に沈む。
外では、ナギが何かを整えていた。
干した布を束ね、竹籠の底に薬草を敷く。
山を降りる――それは、祈りを終えた者だけが許される行いだった。
けれど、祈りが本当に終わることなど、誰にもわからない。
終わりの形は、いつだって人の側でしか決められない。
ナギの背を見ながら、ミユキはそっと息を吐いた。
空気が少し冷たい。
この村、ミマキでは、風が止む日は稀だった。
けれど今朝は、音が何も動かない。
鳥も鳴かず、水も沈黙している。
風のない朝は、山がまだ夢を見ている証だとナギが言っていた。
ならば、夢の続きを踏んで降りるのが、ここを去る者の礼儀なのだろう。
「……準(ととの)った?」
ミユキが問う。
ナギは振り向かない。
代わりに、肩越しにひとつ頷く。
動作がすべての言葉を代弁していた。
家の外では、ミマキの人々が静かに集まっていた。
誰も声を発しない。
祈りとは、沈黙の技法でもある。
音を立てずに気配を揃える――それが、この里のやり方だった。
長老トウリが立っていた。
竹の杖をつき、霧を裂くように前を見ている。
その視線の先には、細い道。
祠の道。
ミマキの人々が山を降りるとき、必ず通る道であり、同時に“戻れない”ことを意味する境界でもあった。
ミユキはその名を心の中で繰り返した。
祠の道――。
そこに祀られている神々の名を、まだ知らない。
だが、知らぬままに歩くほうが、正しい気もした。
ナギは手のひらを合わせ、胸の前で一礼する。
ミユキもそれにならう。
ミマキでは、“出立”もまた祈りの一部だった。
トウリが、かすかに唇を動かした。
音は出なかった。
だが、その動きが風のように伝わってくる。
「見るな。感じろ。」
そう、ミユキは読み取った。
その言葉を胸の奥に刻む。
旅の始まりは、何かを見つけることではなく、何かを見ない覚悟から始まる。
ナギが先に歩き出した。
足元の土が、霜のようにやわらかく鳴る。
音というより、息の摩擦。
ミユキはその背を追う。
家々の屋根が霧に溶け、村人たちの姿も徐々にかすんでいく。
誰も手を振らない。
見送るという行為が、ここでは“切断”を意味するからだ。
ただ、全員の沈黙が、同じ方向を指していた。
道の入口に、小さな祠があった。
白い布が結ばれ、雨の跡を吸って灰色に変色している。
木の根が祠を抱き、まるで山そのものが神を支えているように見えた。
ナギはそこに掌を置いた。
そして、声を出さずに何かを唱える。
その仕草を、ミユキは静かに見つめた。
祈りは音を要らない。
言葉を使えば、神に形を与えてしまう。
形を与えることは、神を小さくすることでもある。
ミユキは、祠に手を添えた。
木の冷たさが指先を包み、脈の代わりに大地の拍が伝わる。
その拍が、しばらくの間、ミユキの心臓と同じリズムで鳴った。
“降りろ”
誰かがそう囁いた気がした。
風ではない。
音でもない。
内側のどこかで、波が一度だけ跳ねた。
ナギが道を進む。
ミユキは続く。
草は濡れていないのに、靴底に重みが残る。
ひとつ息を吸うと、肺の中で世界が入れ替わるようだった。
空気が淡く、光が柔らかい。
音のない風景が、逆に音を思い出させる。
途中、ひとつの石標があった。
八つに切られた印が彫られ、古い手跡のように風化している。
八切石。
ミユキはそれに触れた瞬間、胸の内側で小さく何かが共鳴した。
ナギがそれを見て、短く言った。
「……アワノミチ」
その音を、ミユキは息でなぞる。
アワノミチ――声の路。
風や水が通る見えない道。
神が話すとき、人が夢を見るとき、魂が帰るときに開く道。
ミユキはその道を、いま自分の中で感じたのだと理解した。
霧が、少しずつ下へ流れていく。
木々の葉が音を取り戻す。
水音が、遠くから薄く返ってくる。
まるで山が、「もう行っていい」と言っているようだった。
それでもナギは立ち止まった。
谷を見下ろすように、静かに手を合わせる。
その仕草が終わるまで、ミユキも動かない。
時間が、薄い膜になって伸びる。
やがてナギが小さく息を吸い、振り返る。
「……下(くだ)ろう」
それだけを言って、彼女はまた歩き始めた。
声のない声。
それで十分だった。
祠の道は、ゆるやかに曲がりながら続いていた。
どこまで降りても、山の息が背中にまとわりつく。
それは名残でもあり、加護でもある。
ミユキは、振り返らなかった。
振り返れば、あの静けさが崩れてしまう気がした。
やがて、霧の下から光が差し込んできた。
灰ではなく、柔らかな金の色。
その光に包まれて、ナギの姿がわずかに滲んだ。
ミユキは一歩、遅れて歩を進める。
その一歩が、山と里を分ける音なき境界を踏み越える。
風は吹かない。
葉も、祠も、眠ったままだ。
けれどその静けさの中に、確かに「行け」という呼吸があった。
ミユキは胸の奥で、ひとつ言葉を作った。
声にはしない。
言葉の形だけを、心の中で結ぶ。
――行こう。
音のない世界が、その言葉を静かに受け取った。
山の夢が、少しだけ遠ざかる。
そして、祠の道は、光のほうへと続いていった。
道は、降りるほどに細くなった。
木々の間に並ぶ祠は、どれも同じ形をしているのに、置かれた向きが少しずつ違う。
東を見ているもの、西を見ているもの。
中には、空を仰ぐように傾いたものもある。
ナギが足を止める。
彼女は一つ一つの祠の前で、わずかに首を垂れた。
その所作の間隔が、歩調のように一定で、まるで山そのものの呼吸を測っているように見えた。
ミユキも立ち止まり、同じ動作を真似た。
祠の木肌に、朝露が薄く張りついている。
指で触れると、その露が音もなく滑り落ち、指先の皺を通って、掌の中心に溜まった。
冷たくはなかった。
温かい、と言うのも違う。
水そのものが、存在の境界を持たないような感覚。
「……アワノミチ」
ナギがまた小さく言った。
ミユキは頷き、目を閉じた。
風はないのに、音の気配がある。
遠くの木立の奥で、まだ目を覚まさない風たちが、眠りながら息を合わせている。
「感じろ」
心の内側で、トウリの声が再び浮かぶ。
“見るな”は、“視るな”ではない。
“感じる”とは、“視ることをやめる勇気”なのだと、今はわかる。
祠の並びが終わるあたりで、道が二つに分かれた。
一方は谷へ、もう一方は林の奥へ。
ナギは迷わず谷へ向かった。
その足取りに、決意というよりも静かな整いがあった。
山の湿り気が強くなり、苔の匂いが濃くなる。
足元には、昨日の雨が薄く溜まり、空を鏡のように映している。
ミユキは、その映り込みの中に、自分の顔を見た。
けれど、そこに映っているのは“彼女”ではなかった。
髪の間を風がすり抜けるように、見知らぬ光が瞬き、瞳の奥に白い影が沈む。
「ナギ……」
声を出す。
ナギは振り向かない。
ただ、手を少しだけ上げた。
その仕草だけで、「聞こえている」とわかる。
音が、戻り始めた。
遠くの谷底で、水が流れる音。
葉が擦れる音。
そのすべてが、初めての言葉のように鮮やかだった。
ナギが立ち止まり、振り返る。
風も霧もない。
ただ、沈黙の奥に祈りの形だけが残る。
彼女は、ゆっくりとミユキに近づいた。
両手を広げて、彼女の頬を包む。
掌の温度が、柔らかく伝わる。
その温もりは“人の体温”というより、“この山の体温”のようだった。
ナギが唇を動かす。
言葉は出ない。
音は、風の不在の中でほどけて消える。
けれど、意味は確かに届く。
――ここで、終わり。
――ここから、始まり。
ミユキは、頷いた。
目の奥が少し熱い。
涙ではなく、血の流れに似た感覚。
ナギが一歩下がり、深く頭を下げる。
それは別れではなく、託す動作。
「……ナギ」
ミユキは口の中で呟いた。
その音は、山の空気をわずかに震わせて、静かに溶けた。
ナギは、再び微笑んだ。
山の霧がわずかに揺れ、その姿を包み込む。
ミユキは背を向けた。
祠の道は、もう一本の細い糸のように続いている。
足を踏み出すたびに、地面の感触が変わる。
苔から土へ、土から石へ。
足音が変わるたび、記憶の奥で別の世界が開く。
「風の国は、遠くない」――ナギの声が、背中にかかる。
その一言が、すべての祈りの終わりを告げる鐘のように響いた。
振り返らない。
風が、振り返りを奪うように、静かに立ちはだかっていた。
足元に、八切石が一つ転がっていた。
ミユキはそれを拾い、掌の中で転がした。
冷たい。けれど、冷たさの奥に、心拍のような鼓動がある。
それはもう、ミユキ自身のものか、山のものか、わからなかった。
彼女は石を、祠の根元にそっと置いた。
石が地面に触れた瞬間、微かな音がした。
それは、音というより、空気が生まれる瞬間の気配だった。
“神は、形を持たない”――ナギの言葉がよぎる。
だからこそ、形を与えるたびに、神は一度死ぬ。
その死を繰り返し、世界は生まれ続ける。
祠の列が尽きた。
谷底が見える。
遠くに、水の光。
太陽ではない。
雨の余韻のような、曖昧な輝きが、川面に溜まっている。
ミユキは立ち止まり、空を仰いだ。
二重の空は、もう一枚になっている。
けれど、光の層のどこかで、まだ“誰か”が息をしている気がした。
――聞こえる。
それは、音ではなく、圧。
風の鼓動が、世界の膜を押し広げるように、ゆっくりと伝わってくる。
音なき風。
姿なき神。
それらがすべて、自分の中に在ると、今はわかる。
ナギが最後に言った言葉。
「山は、夢を見ている」
ならば、夢の続きを見るのは、自分の番だ。
ミユキは、祠の道の最後の段に足を乗せた。
石の感触が確かで、しかし、次の一歩の先には、何もない。
風は、いまだ眠っている。
世界の音は、ひとつも戻ってこない。
息を吸う。
音のない吸気。
肺の内側で、光が一度だけ、やわらかく跳ねた。
――行こう。
口の中で、もう一度、その言葉を結ぶ。
祈りではない。
帰還でもない。
ただ、「生きて歩く」ということそのものの言葉。
足を出す。
その瞬間、世界の奥で、ほんのわずかに――
風が鳴った。
それは一度きりの音だった。
どこにも響かず、誰にも届かず、ただ山の夢の底で、静かにほどけていった。
祠の道の終わり。
風は吹かない。
山は眠り続ける。
けれど、彼女の胸の中だけに、まだひとつの風が、生きていた。
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