第12話 水ノカガミ

闇はまだ息をしていた。

 夜が終わるには、わずかに早い。

 山の稜線が光の端を孕みながらも、地の底ではまだ、眠りの気配が濃い。


 ミユキは、濡れた土の上に横たわっていた。

 頬に触れる草の露が冷たく、指の先に泥の重みがある。

 耳の奥で、遠い水音がする。

 静かだが、どこか人の声にも似ていた。


 (……だれか、呼んでる?)


 身を起こす。

 霧は薄く、空気の底に青い匂いがあった。

 足元に、細い道が続いている。

 その先に、光るものがある。


 ——水だ。


 近づくにつれ、空気が冷たくなっていく。

 そこは泉だった。

 山の腹の裂け目に、まるで鏡を嵌め込んだように静かな水面がある。

 風も触れず、波も立たない。

 ただ、呼吸を映している。


 ミユキは膝をつき、水面を覗き込んだ。

 そこに映っていたのは——自分ではなかった。


 白い影。

 昨夜の、あの白装束のような姿。

 顔は見えない。

 けれど、確かに“こちらを見ている”とわかる。


 喉が動いた。

 言葉にならない息が零れる。

 水面がわずかに揺れ、影が波紋に溶けた。


 すると、水の奥から声がした。


 ——なぜ、見た。


 低くも高くもない。

 骨に響く声。

 昨夜、胸の奥で聞いたあの響き。

 ミユキは肩を震わせ、視線を落とした。


 「……ごめんなさい」


 自分でも驚くほど自然に言葉が出た。

 その瞬間、水が淡く光る。

 光は白ではなく、青。

 闇に沈む夜の、最後の色。


 ——見たのならば、覚えよ。


 水面に手が伸びた。

 それは自分の手ではなかった。

 水の中から伸びてくる白い指。

 指先が水を破らずに、こちらの指に触れる。


 冷たくも熱くもない。

 何かが体の内に流れ込む。

 それは、痛みのようで、記憶のようでもあった。


 瞼の裏に、古い景色が閃いた。

 見たことのない村。

 赤い土。

 黒い柱。

 祭壇の上に並ぶ小さな人形。

 人形の胸に糸が通されている。

 赤と白の二色。

 その結びが解かれる瞬間、血のような水が滲んだ。


 ミユキは息をのんだ。

 水面が再び静まる。

 影も、声も消えた。


 そこに残ったのは、彼女自身の顔だった。

 けれど、どこか違う。

 瞳の奥に、夜明けの色が沈んでいた。

 それは、見てはいけない世界を映した証。


 (……これは、罰?)


 風が吹いた。

 ようやく夜が動いた。

 鳥が遠くで鳴く。

 その声が現実に彼女を引き戻した。


 振り返ると、霧の向こうに人の影があった。

 村の老人だった。

 手に縄のようなものを持ち、慎重に歩いてくる。


 「目ぇ、覚めたか。神災の夜は越したぞ」

 声は掠れていたが、どこか安心しているようでもあった。


 ミユキは頷いた。

 「……みんなは?」

 「無事だ。ただ、祠の前が崩れてな。あれは神さまの息や」


 老人は泉を見下ろし、深く頭を下げた。

 「見てはならんもんを、見たやろ」

 その声は優しく、責める響きはなかった。


 ミユキは何も言えず、ただ泉を見つめた。

 水面に、朝の光がひとすじ落ちる。

 それが鏡の中で揺れ、彼女の頬に映った。


 (見たのなら、覚えよ……)


 水の声が、まだ骨の奥に残っている。

 けれど、不思議と怖くはなかった。

 恐怖のあとにある静けさは、まるで神のまばたきのようだった。


 老人は縄を巻き直し、笑った。

 「朝餉の支度ができとる。山も落ち着いとる。はよ帰り」


 ミユキは立ち上がった。

 足元の泥に映る影が、二つに見えた。

 風が通り過ぎる。

 その一つが、ゆっくりと消えた。


 残ったのは、自分だけの影。

 けれど、胸の奥にもう一つの呼吸を感じる。


 ——“感じることしか、許されない”。


 そう呟くように息を吐いた。

 それが祈りであることに、まだ気づいていなかった。

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