バッドランズ・グレイアウト
梅屋凹州
第一章「アットホームな職場です」―ANOTHER ONE BITE the DUST
第1話
『本日のニュースです。
先週から行方不明となっていた、目黒区に住む女子高生が、近くの河川敷で遺体となって発見されました。警察の捜査によると、遺体は複数人によって暴行を受けた形跡があるとのことです。同様の手口で殺害された近隣住民は今年に入って十一人目で、警察では犯人の行方を追っています』
『次のニュースです。
昨日発生した大手町駅での異臭騒ぎの続報です。
警察によると、異臭の正体は女子トイレに置かれた化学薬品が原因と見られるとのことです。目撃者の証言によりますと、薬品はペットボトルに入れられ、中から白い煙が上がっていたという話で、専門家はなんらかのテロ事件の予兆ではないか、と注意を呼び掛けています』
『次のニュースです。
昨日深夜、新宿区のマンションの一角で発生した爆発火災が起きました。警察の発表によると、マンションの住民数十人が怪我、うち数名が死亡したとのことです。火災はまだ続いており、消防では決死の消火活動にあたっています』
『次のニュースです。……』
テレビを消す。
鍵をかけ、家を出る。
東京は、速すぎる。
人の歩く速度も、乗り過ごした電車の次発が来るのも、仕事の納期も、定時が来るのも、残業に突入するのも、次の朝が来るのも。
人事異動も。
何もかにもが、速すぎる。
「出向……ですか?」
まだ入社してたった一月、春の名残の濃い、五月のことだ。
社会人になりたての十三にも、人事異動のタイミングとしては早すぎることはわかった。
会議ブースに十三を呼び出した人事部の
「そ。出向。……聞いたよー、東雲クン。お客サンに相手に、キミやらかしたんだって?」
「や、やらかした……?」
「ずいぶん失礼なクチ、利いたみたいじゃない。先方からクレームの電話、あがってきたんだよねー」
そこまで聞いて、十三は「あぁー」と思い当たる節に声をあげた。
昨日、十三はとある取引先を訪問していた。十三の務める派遣会社の、大口の得意先のひとつだ。
そこで派遣就業している社員が、働きだしてひと月も経たないうちに、辞めると騒ぎだしたというのだ。
担当営業の十三としては、見過ごせない事態だった。なにせその派遣社員の契約は、まだふた月も残っている。契約途中の離職は非常に心象が悪い。
十三は、すぐさま詳しい事情を聞くべく、該当の派遣社員本人に電話をかけた。
しかし、その社員は派遣先にすっかり怒り心頭の様子で、謝罪どころか、逆ギレする始末だった。待遇がどうだ労基がどうだといって、出社自体を拒否するという。十三が詳しい事情を聞こうとしたが、電話は一方的に切られ、再応答もない。
打つ手のなくなった十三が、手を変えて派遣先を訪ねたところーー盛大なクレームを受けたのだった。
先方の課長ーーウワサでは社長の息子だという、十三と対して年の変わらないクセに偉そうなツーブロックのエラ張り顔ーーは、口角泡を飛ばして、十三を責めた。曰く、
あのさ、君のとこの在庫どうなってんの。少し残業時間多かったぐらいで辞める辞めるって大騒ぎしてさ。常識がないあり得ないでしょ。そんなヒトもう要らないから替わり早く寄越して。
ーー残業。担当営業としてそのキーワードを聞き逃すことが出来ず、十三が残業って何時間ぐらいだったんですか? と何気なく聞いたところ。
「なんでも先月の残業時間、70時間超えだったらしく……。で、つい、70時間はちょーっと多いですね~とポロっと言ったら……それが向こうの課長さん、気に障ったようでして。大激怒して、話にならない担当者変われ早く替わりの在庫を寄越せ、と――」
「――ねぇ、東雲クンさぁ」
オレの言葉を遮った灰島部長は、笑みを崩さず、一言一言区切りをつけて言った。
「それをね、社会では、やらかし、って言うんです」
部長の笑みに、圧が加わっていく。
「東雲くん、うちはね、人材派遣業なの。人を送ってナンボ、マージンもらってナンボの商売なの。相手先の要求にはハイハイなんでも言うことに従う。在庫を説得するのもキミの仕事。文句は言わない言えない在庫からのクレームは知らないフリ――だった、ワケ」
そこまで言うと、部長は軽く両手を挙げた降参のポーズで、「まぁ、キミにとってはもう過去形だけどね」と付け加えた。
十三は掠れた声で尋ねる。
「――……そ、それが原因で、オレ……私……の、出向が決まった……んですか」
「いやいや! 原因ってワケじゃないよ! 人聞き悪いなァ。キミのその、上司でも取引先でも関係なく自分の意見をズケズケ言うところ、ボクは高ァく評価してるんだよー。東雲十三くん、キミは、キミを高く評価した人事部の判断により、めでたく、明日からうちのグループ会社に出向してもらいます、ってハナシ。出向先の会社規模は今よりはるかに小さいけどまぁ文句はないでしょ?」
「はぁ……まぁ、そうですが……」
「まぁ――キミが出向を拒否して、会社を辞めたい、ってならハナシはベツだけど?」
「そっ、それは、ありえませんっ!」
十三は声を張り上げた。
冗談じゃない、と思った。長引く不景気のなか、田舎のFラン大学卒の自分がこの会社に内定をもらうまで、どれだけ苦労したか。思い浮かばない志望動機。相次ぐお祈りメール。やっとの思いで就職したのに、賞与もインセンティブもまだ一度も貰っていない。奨学金はまだ十五年分支払いが残っている。母に借りている金もある。
たったひと月で退職など、絶対に、あり得ないことだった。
十三の心のこもった言葉を聞いた灰島は、我が意を得たり、というように大きな白い歯を見せて笑った。
「そうそう、そうだよねェ! だぁーいじょうぶ、今度の会社ねェ、規模は小さいんだけど深夜勤務なんだよ。つまり、深夜手当がつく! いいハナシじゃなーい」
灰島は豪快に笑って立ち上がり、十三の肩をバシバシ叩いて言った。
「じゃ、そういうワケだから、さ。キミの先輩の久保クンにはもう話、通してるから、今日中にカレに引き継ぎだけヨロシクね。じゃっ、ハイ、行っていいよー」
「はい……失礼します……」
うまく言いくるめられた形で面談を打ち切られた十三は、すごすごと会議ブースから自席に戻った。
席につくと、隣の席の先輩の久保の姿が自然と目に入る。視線も寄越さず黙々とノートのPCをいじっている久保は、入社以来から世話を焼いてくれた十三のOJT担当の先輩だ。十三は久保に、こわごわと声をかけた。
「あの、先輩……。オレ……」
「あぁ、聞いてるよ。明日から出向だってな」
「スミマセン……。せっかく仕事、教えて頂いたのに」
「まぁ、しょうがねぇじゃん」
久保の顔には十三に対する怒りも呆れもない。入社したときからずっと無感情の虚無顔だった先輩はーー飲み会で語ったところによると、この一年で会社に魂を抜かれ人格が変わったと自称する先輩の顔はーーひとつき手塩にかけて育てた後輩が去ろうが、驚きも怒りもなく、夜の海のように静かで暗く、果てしなく虚無だった。
「っつっても、入って二ヶ月の新人から引き継ぎってもな。とりあえず、作戦会議いくか」
「はい」
”作戦会議”、つまりタバコ休憩のことである。
十三は久保と共に、こそこそとデスクから離れた。サボりに目ざとい女性事務員たちに見つからないように、オフィスを忍び足で抜ける。首尾よく二人揃って下層行きのエレベーターに乗りこむことができた。
一階エントランスフロア行きのボタンを押したところで、久保が思いだしたように呟いた。
「そういやオマエ、うちの会社の……親会社のこと、ちゃんと知ってる?」
「いえ、全く」
十三は首を振った。今の会社は新卒採用エージェントに薦められるままに採用試験を受けて入社したので、企業研究を一切していなかった。
久保はさして気を悪くした様子もなく「そか」と頷いて話を続ける。
「ここさ、大元がイネイブラー・パートナーズっていう会社なんだわ。土木、運送、解体、介護……主にブルーカラーメインに人材送りこんでる会社。派遣社員を送りこむウチの会社と違って、エージェントタイプの会社な」
「へぇ……」
「業界のなかでは……何番手なのかな。広告も出さないし、あんまり有名だって話は、聞いたことないな。でも、うちの役員連中が本社の出向組で、みんな良い身なりしてるから、結構儲かってんだろうな」
「先輩、よく見てますねぇ」
「ま、そういうとこはな……」
エレベーターが一階に到着する。十三と久保は忍者のような足取りでビルの喫煙室に入った。都会の喫煙者は肩身が狭い。
十三が胸ポケットから取り出した紙タバコを、久保は物珍しそうに眺めた。
「東雲って葉タバコなんだな。いまどき珍しい」
「まぁ……電子タバコの匂い、慣れなくて」
「そ。――で、さっきの話の続きな」
甘ったるい匂いの電子タバコを嘴を伸ばすようにして吸いながら、久保は話を続けた。
「うちの上席連中、どーも羽振り良すぎておかしいと思ってさ。やけに高い腕時計。黒塗りの高級車数台。平日夜から麻布やら六本木で接待だろ? で、どうしても気になって、経理に配属された同期に聞いてみたワケだ。そしたら――」
久保は、もったいぶるようにふーっと紫煙を吐いたあとで、
「どーも、うちの親会社、反社らしい」
小声で告げた言葉は、十三に特大の衝撃を与えた。
「えっ、……ええええっ!?」
「声でかい」
「すみませんっ! すみませ、いやでもっ、えええっ!?」
久保は深くため息をつく。十三は平謝りしながらも、動揺を隠せずにいた。
反社――いわゆる反社会的勢力組織。昔の言い方なら、ヤクザというやつだ。
今時の会社は法令順守、コンプライアンス意識が高い。反社組織との関わりは商取引や採用活動、補助金申請など、多方面へのマイナス影響が大きく、普通の会社なら関わりを避ける。そのために取引先や、取引見込み相手の調査、いわゆる反社チェックを行う会社が多いという。――普通の会社なら。
十三は頭を抱えた。
「……うちの会社自体が反社の子会社なら、反社チェックなんかしないですよね……」
「おっかしいとは思ってたんだよな。部長も役員も、なんか明らか仕事できる雰囲気じゃないだろ? 仕事中、スマホばっかいじってPC触ってるとこ見たとこないし。でも金回りだけはやたらといい。そういうの大体、親会社からの天下り社員じゃん。じゃあ肝心の親会社が何で金持ってんのかって調べたら、そういうコトだった訳だ」
「そうなんですか……」
「そう。で、俺、もうすぐ辞めるから」
「えぇっ! マジですか……?」
十三は心底ビックリして先輩の横顔を見つめた。もう自分とは関わりがなくなるとはいえ、直接指導してくれた先輩が会社を辞めると聞くと、なんともいえない気持ちになる。
しかし、嘴を伸ばすようにして電子煙草を咥える久保の顔には、相変わらずの虚無しか宿っていなかった。まるでひとごとのように淡々と話す。
「俺も入社して一年たって、失業手当は出るようになるからな。生活はある程度保障される。変な会社入って職歴に傷ついちまったけど、まだ20代だし、いくらでもやり直しきくだろ。反社に関わって親泣かせられないよ」
そう言うと、先輩は煙草のカートリッジをしまった。晴れやかな表情、というよりは、荒れた故郷を見つめる兵士のような顔だった。
「マジすか〜〜久保先輩まで……。オレもこの機に、辞めるべきなんですかねェ……?」
「東雲は、次の会社でもうちょっと頑張ればいいんじゃないのか。一年は働かないと、雇用保険下りないぞ」
「そうは言っても、いくらなんでも反社はないスよ……親会社が真っ黒なら、子会社もクロ、ってことでしょ?」
「親と子は別だろ、多分。一親等なら、クロだって少しは薄くなってグレーになるんじゃないのか」
強引な屁理屈で話を打ち切った久保は、十三の肩をポンと叩いた。
この一年の激務のせいで濁りに濁りきった久保の目が、十三をまっすぐに見つめて言う。
「東雲。お前のメンタルの強さと図太さは、このひと月世話した俺が保証する。お前ならどこでもやっていける。きっと。おそらく。たぶんな」
「……なら、先輩、先輩ももうすぐ無職なんスよねェ。いっしょに行きましょうよ。出向」
「それはちょっと。辞退するよ」
「そんな先輩、一蓮托生スよ。オレが先方に口利きますから」
「いいよオレは。とてもとても」
「先輩。そんな、ねぇ。遠慮しないでくださいよ。先輩ったら。おーい」
十三はタバコの火が消えるまで粘り強く説得したが、久保には逃げられた。
「ーー……図太い、ねェ……」
アフター5ならぬアフター9、夜21時。
”残業を含めた”定時あがりの帰宅途中、東雲十三は、歩きタバコをしながら帰り道をぐだぐだと歩いていた。
街灯も少なく、薄暗くて、周囲に歩行者の姿まばらだ。
それをいいことに十三は堂々と歩きタバコをしていた。
誰かに見咎められようが、どうでも良かった。
十三は素行が悪いつもりはないが、歩きタバコぐらいは大目に見てほしいと、世の中に対して思っていた。そうじゃないと、今日のような最悪な気分も、消化できない。
そう自分に言い訳しつつ、十三は夜空に紫煙を吐き出す。か細い煙は、都会の夜空に溶け込むように消えていった。
都会は星が少ない、ように十三は思う。長い一日の終わりの都会の夜空は、塗りこめたように真っ黒な、星なき空だった。
ーー昔から十三は、神経が図太いとか、無表情で虫を潰せそう、とよく言われてきた人生だった。無人島で何年もひとりで過ごせそうとも、世界が滅びてもちゃっかり生きのびてそうとも評されてきた。ーーそういえば、昔付き合ってたカノジョに、ヒトの心がない、って泣かれたこともあった。そしてフラれて、カノジョとはそれきりになったこともあった。それは、「いつも眠そう」と言われる重たげな二重まぶたのせいか、何徹してもクマひとつできない血色の良い肌艶のせいか、バイト先で酔っぱらいの愚痴を右から左へ聞き流せる特技のせいか、わからない。
だが、まさか仕事にまで影響してくるとは。こんな人相で生んだ親を少し恨みたくもなる。
ーー親。
「……母さんに、電話しないとな……」
フィルターぎりぎりまで吸ったタバコを胸ポケットの吸い殻入れにしまった十三は、かわりにスマートフォンを取り出した。
明日から、勤務先が変わるのだ。いちおう家族に連絡は入れておく必要があるだろう。ひどく憂鬱な気分だった。
「ーー反社に関わって親泣かせられない……よなァ……」
十三は呟きながら電話をかける。脳裏には、母の顔がよぎってた。
十三は親孝行な人間を目指しているつもりはないし、特段親思いでもない。
が、女手ひとつで息子を大学まで入れてくれた母には、それなりの負い目がある。ひとり息子の就職先が反社と関わりがあったと知って、母はどう思うだろうか。
十三が悶々と憂鬱な気持ちを溜め込んでいる間に、数コールで相手が電話に出た。
『はいこちらっ、居酒屋”しののめ”ですっ』
電話向こうから返ってきたのは、十三の予想に反して、はつらつとした若い青年の声だった。
「あー、もしもし? もしかしてたまくん? オレオレ、オレです」
『あぁー! シノくんだぁ。久しぶりー。げんき?』
電話に出たのは母ではなく、十三の幼馴染で、実家の居酒屋を手伝ってくれている
”たま”は、いかにも田舎の青年といったおっとりとした言葉選びで、ちょっぴり滑舌が悪く鼻にかかったような喋り方をする。小さい頃から全く変わらないその口調に、疲れきっていた十三の声も思わず弾んでいた。
「うん、元気元気ー、元気だよ。たまくんはどう? そっちは変わらない?」
『うん! 最近はねーイノシシも山から下りて来なくなって猟が落ち着いたからねぇえ、毎日シノくんのおばちゃんのお店、手伝ってるんだー』
「そうなんだ。いつもありがとうね。……母さんは、元気?」
十三が”たま”と話している後ろから、受話器からガヤガヤと談笑の声が聞こえていた。母と、客たちの笑い声だ。実家の居酒屋は変わらず、常連客で繁盛しているようだった。
”たま”が言う。
『うんー。電話すぐ替わるから、ちょっと待っててくれるー? 今おばちゃん、お客さんと盛り上がっちゃっててさぁあ』
「ううん、大丈夫。忙しいなら替わらなくていいよ。急ぎの用事があるわけじゃないし……」
『えー? そうなのー? そっかー。シノくんはどう? 東京は楽しー?』
「まー、そこそこかな。たまくんもこっちおいでよ。オレのアパート泊まっていいよ」
『あははははー。そうしたいんだけどねー。もうすぐ村のお祭りがあるでしょ? 死んじゃった裏のおばあちゃんの田んぼも世話しなきゃいけないし、辻のおじさんと一緒に合鴨潰す約束しちゃったし、それからえーっと』
「……そうだよね。たまくんは忙しいもんね」
”たま”は小さい頃から、故郷に馴染んだ子どもだった。
小学生時代から畑や田んぼの仕事を手伝い、中学生からは猟まで手伝って、神社や地区の行事にはいつも参加していた。”たま”は素直で愛嬌が良く、頼みごとを断らずどこでも飛び出していく性格なので、村の大人たちからとても可愛がられていた。
たまのような人間は、地域の大人たちも手放したがらないのだ。それもあってか、”たま”は成人した今でも、特定の職につく必要もなくのんびりと暮らせている。村の仕事の手伝いをして、対価として食糧や日銭を得て、それで生活が満たされていた。
きっと、”たま”は生まれてから死ぬまで、故郷のなかで人生が完結するのだろう。
十三には、とても出来ない生き方だ。
”たま”の話を聞くたびに、十三はそう、痛感する。
「……たまくん、オレは、東京でしばらく頑張るよ。奨学金も返さなきゃならないからさ」
十三は”たま”にそう語った。
たとえ反社組織の下っ端になろうが、十三には他に、行きたい場所もないのだから。
『そうだよねぇ。大学に行くのも大変だよねぇ』
ちっとも大変じゃなさそうな口調で”たま”が相槌を打つ。そのとき、受話器の奥から、闊達な女性の声が届いてきた。
『ねー、たまちゃん、あっちのお客さんがお肉食べたいって。ステーキ焼いてくれなーい?』
少し酒やけしたハスキーボイス。十三の母の声だった。
『あっ、おばちゃん、いまシノくんと電話しててさぁ。……』
”たま”は母と一言二言言葉を交わしたあとで、十三にこう言った。
『シノくんシノくん、おばちゃん、“母は客にモテモテで忙しいから息子の相手は後でね”だって。あと“泣きごと言わずに頑張りなさーい”ってさ。やっぱり、電話替わろっかー?』
十三は苦笑する。いかにも母らしい言葉だと思った。
「ううん、いいよ。あとでメール送っておくから。ありがとね、たまくん。またね」
”たま”に十三は別れを告げ、通話を切る。
画面に表示された『通話終了』の文字で、十三と故郷と繋がりは断たれた。
結局何も伝えられないままだ。
「――……ふぅ」
十三は胸にたまった重い空気を吐きだして、しばし立ち止まった。
呼吸を整え、再び歩き出そうと上を見上げたとき、
「あ……」
いま自分が、映画館の前に立っていることに気づいた。
古ぼけた看板が掲げられた、こじんまりとしたミニシアターだ。掲示板には、十年以上前に流行ったアニメ映画の色あせたポスターが「上映予定作品」と展示されている。
そこに並んで掲示された上映スケジュールを見ると、大昔に流行ったスプラッタ映画の名前があった。ちょうど今から、リバイバル上映が始まるところらしい。
――これだ、と十三は決意した。
最悪の一日の終わりは、最悪な誰かの物語で締めるに限る。
十三はふらふらと映画館のなかに足を踏み入れた。レトロな映画館特有の、紙類とポップコーンが染みついた匂いに出迎えられる。無愛想な店員から、チケットと炭酸飲料、ポテトを買って劇場内に入った。今時珍しい自由席スタイルのシアターに、客はぽつぽつとしかいなかった。
着席した十三は、映画の予告編をのんびりと眺めながら、べとっとした油っぽいポテトを頬張った。これが、今日の夕食だ。
古めかしいブザーの音が鳴って、映画が始まった。
スクリーンでは、開幕早々に惨殺が起こっている。金髪の女性が息を潜めて、屋敷内をうろつく殺人鬼から逃げ惑う。甲高い悲鳴。助けを求める声は誰にも届かないまま、無情にも金髪女性の背中に刃が振り下ろされる。
悲劇から始まる物語。増えていく被害者。惨劇は続く。
不思議だ、と十三は感じていた。
何度も繰り返し観たはずのストーリーを反芻した十三の心には、不思議な安らぎがあった。
――どうして誰かの不幸な物語を見て、自分の心は落ち着くのだろう、と。
答えが得られないまま、十三は映画館の座席に身を沈めた。
このまま、映画館の座席と一つになればいいのに。
そんな益体もないことばかりを、十三は考えていた。
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