金持ちの暇つぶし ―ひとりの天才が“退屈”を解くまで―
アソビマン
第1話 兄の背中
俺は昔から、“できる子ども”だった。
計算も魔力制御も、教科書を一度読めばだいたい理解できた。
わからないことがあっても、夜には答えを見つけていた。
先生に褒められるのは当たり前で、テストで間違えれば保健室送りみたいに騒がれる。
周りの反応が面倒で、次第に「手を抜く」という技を覚えた。
努力という言葉は、俺の辞書にはなかった。
小学校三年の頃、魔法理論の授業で、教師が質問をした。
「なぜ魔力は大気中に拡散しないのか、わかる人?」
誰も手を挙げない。
俺は、仕方なく手を挙げた。
「魔素は磁場干渉で互いに束縛してるからです」
教室が静まり返り、教師が苦笑した。
「……よく知ってるね、榊原くん。どこで習ったの?」
「父が昔、論文に書いてました」
それだけ言って席に戻る。
みんなの視線が痛かった。
嫉妬と警戒と、ちょっとした尊敬が混じったような目。
あれが俺の“天才”というレッテルの始まりだった。
それから俺は、静かに浮いた。
昼休みは一人で弁当を食べ、放課後は図書室で過ごした。
他人と話すより、魔法書を読んでいるほうが落ち着いた。
友達の作り方なんて、わからなかった。
別にいなくても困らないと思っていた。
……本気でそう思っていた。
ある日の帰り道、校門の前で足を止めた。
兄の一哲が、同じ制服の仲間たちと笑いながら歩いていた。
肩を組まれ、冗談を言い合い、時々声を上げて笑う。
その中心に兄がいて、周囲が自然と輪を作っていた。
俺は木陰からそれを眺めていた。
風が吹き抜け、兄の笑い声だけがやけに鮮明に耳に残った。
兄は、俺と違う。
努力家で、誰にでも優しくて、誰とでも話せる。
先生からの信頼も厚く、運動も得意。
完璧な長男。
榊原家の次期当主。
俺がいくら理屈を並べても、兄のあの笑顔ひとつには敵わなかった。
その日、帰り道の空がやけに広く見えた。
夕焼けが眩しくて、何度も目を細めた。
兄の背中が遠ざかるたび、
胸の奥に、何か小さな塊が生まれていくのがわかった。
それがなんなのか、当時の俺はまだ言葉にできなかった。
家に帰ると、母の玲花が食卓を整えていた。
「壮馬、おかえり。今日も早かったわね」
「うん。特に用事もないし」
「また図書室?」
「……別に」
母は微笑んで、俺の頭を軽く撫でた。
その手が、少しだけ温かく感じた。
食卓には父と兄が並んでいた。
父は新聞を片手に短く挨拶し、兄は「今日、試合で優勝した」と笑っていた。
俺は静かにスープを口に運んだ。
味はよくわからなかった。
兄が家族の中心で話しているのを、ただぼんやりと眺めていた。
その夜、自室で窓の外を見上げた。
月が高く、雲が薄く、どこか現実味がなかった。
机の上には魔法書と計算ノート。
次の課題も、もう終わっている。
やるべきことはない。
やればできる。
けど、それがなんの意味を持つのかも、わからなかった。
——俺は兄のようにはなれない。
そう思ったのは、その夜が最初だった。
頭では理解していた。
家の期待は兄にあり、俺には自由がある。
だけど、心のどこかがざらついたままだった。
兄は笑って、俺は黙っている。
それだけで、世界の形が決まっているように見えた。
翌朝、鏡の前で制服の襟を整えながら思った。
「今日も、ほどほどでいいか」
努力をすることも、勝つことも、兄のように輝くことも。
全部、少しだけ面倒だった。
けれど——
その面倒くささこそが、俺という人間の始まりだったのかもしれない。
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