第26話「おかえり、新しいネタ帳と一緒に」

 人は時として、遠回りをして初めて、一番大切な場所に気づく。


 僕にとって、それはこのカウンターの向こうにある、姉の笑顔だった。


 今日は、そんな「帰る場所」について考えさせられる一日だった。


 *


 午後の穏やかなカウンターで、あかりはいつものようにドリップコーヒーを淹れていた。


 お湯を注ぐ手つきも、豆を蒸らす時間も、すべてがいつも通り。


「やっぱり、いつもの場所が一番落ち着くのよね」


 あかりは独り言のように呟きながら、カップに最後の一滴を注いだ。


「新しいことも大切だけど、変わらないものがあるって、安心するわ」


 *


 人は時として、遠回りをして初めて、一番大切な場所に気づく。僕にとって、それはこのカウンターの向こうにある、姉の笑顔だった。


 午後3時の渋谷クロスカフェ。


 僕は新しいネタ帳を手に、久しぶりにいつものカウンター席に座った。


「ただいま、姉ちゃん」


「あら、ハル。おかえりなさい」


 あかりは、いつものように自然な笑顔で迎えてくれた。


「独立生活はどうだった?」


「それが...」


 僕は少し照れながら答えた。


「やっぱり、姉ちゃんのそばが一番ネタの宝庫だって分かった」


「あら、そう?」


「うん。他の場所でいくら観察しても、姉ちゃんみたいに面白い人はいないんだよ」


「面白いって、失礼ね」


 あかりは苦笑いしたが、嬉しそうだった。


「でも、ちゃんと成長したのよ?」


 僕は新しいネタ帳を見せた。表紙には「人生のアロマ収集帳」と書いてある。


「人生のアロマ?」


「そう。姉ちゃんから学んだんだ。人との会話から立ち上る、温かい香りみたいなものを集めたいって」


 あかりは感心したような顔をした。


「素敵じゃない。で、今日は何を観察するの?」


 その時、店の入り口から困った顔をした女性客が入ってきた。


 20代後半くらいの、スーツを着たOLさんだ。


「いらっしゃいませ」


「あの...すみません、相談があるんですが」


 女性は恥ずかしそうに言った。


「実は、職場の後輩との関係で悩んでて...」


「どうぞ、お聞かせください」


 あかりは優しく促した。


「後輩の田村さんって子がいるんですが、すごく真面目で優秀なんです。でも、最近私に対してよそよそしくて...」


「よそよそしい?」


「はい。前は気軽に話しかけてくれたのに、最近は必要最低限のことしか話してくれません」


 女性は悲しそうに続けた。


「私、何か悪いことしたのかな...」


 僕は新しいネタ帳にメモを取りながら、姉の反応を待った。


「なるほど...」


 あかりは少し考えてから言った。


「それって、コーヒーで言うと『距離感の調整』の問題かもしれませんね」


「距離感の調整?」


「はい。コーヒーを淹れる時、お湯と豆の距離が近すぎると苦くなるし、遠すぎると薄くなるんです」


 僕は心の中でニヤリとした。


(心の声:始まった、姉ちゃんのコーヒー哲学)


「人間関係も同じで、田村さんはもしかすると、あなたとの距離感を測りかねているのかもしれません」


「距離感を...」


「先輩として頼られたいけど、友達としても仲良くしたい。でも、どの距離が適切なのか分からなくて、とりあえず遠めに設定してるのかも」


 女性は「あー」と納得したような声を出した。


「確かに、田村さんって真面目だから、先輩との距離感に悩んでそう」


「そうですね。だから、あなたの方から『ちょうどいい距離』を示してあげるといいかもしれません」


「ちょうどいい距離って?」


 あかりは、ドリップコーヒーを淹れながら説明した。


「仕事の時は先輩として、休憩の時は友達として。メリハリをつけて接してみてください」


「なるほど...」


「それと、『田村さん、最近どう?何か困ってることない?』って、さりげなく声をかけてみてください」


 女性の表情が明るくなった。


「そうですね。私から歩み寄ってみます」


「きっと、田村さんも安心すると思いますよ」


 女性は嬉しそうにコーヒーを受け取って、席に着いた。


「姉ちゃん、今の話、すごく分かりやすかった」


「そう?」


「うん。距離感の調整って、確かにコーヒーと似てるかも」


 僕はネタ帳に書き留めた。


『人間関係の距離感は、コーヒーのお湯と豆の関係と同じ。近すぎず、遠すぎず、ちょうどいい距離を見つけることが大切』


「ハル、そのネタ帳、前のと違うのね」


「うん。今度は、姉ちゃんの哲学だけじゃなくて、それを聞いた人の反応も書くことにした」


「反応?」


「そう。さっきの女性も、姉ちゃんの話を聞いて表情が明るくなった。そういう『人生のアロマ』を集めたいんだ」


 あかりは嬉しそうに微笑んだ。


「素敵ね。私も、そういう瞬間が一番好きよ」


「やっぱり、姉ちゃんのそばにいると、いろんな発見がある」


「あんたも、ちゃんと成長してるじゃない」


「まあね。でも、まだまだ姉ちゃんから学ぶことがたくさんある」


 その時、さっきの女性が席から手を振ってくれた。


「ありがとうございました!明日、田村さんに声をかけてみます!」


「頑張ってください」


 あかりが手を振り返すと、女性は嬉しそうに店を出ていった。


「ほら、また一つ『人生のアロマ』が生まれた」


 僕はネタ帳に追記した。


『姉ちゃんの哲学を聞いた人の笑顔。それが、一番いい香りかもしれない』


「ハル、おかえりなさい」


「ただいま、姉ちゃん」


 僕たちは顔を見合わせて笑った。


 やっぱり、ここが僕の一番の場所だ。


 新しいネタ帳と一緒に、また姉ちゃんの哲学を記録していこう。


 そして、たくさんの「人生のアロマ」を集めていこう。


 読者のみんなにも、この温かい香りが届きますように。


 *


 次回:第27話「その悩み、ブレンドで解決しませんか?」


 #渋谷クロスカフェ #ハル復帰 #対話型復活 #人生のアロマ #姉弟の絆 #距離感の調整

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