第25話「彼のドリップは、まだ味が薄い。」

 恋愛において、「ちょうどいい距離感」を保つのは難しい。


 近すぎれば重いと思われ、遠すぎれば冷たいと思われる。


 でも、時間をかけて、少しずつ濃くしていけばいい。


 今日は、そんな「恋の焙煎」について考えさせられる一日だった。


 *


 夕方の静かなカウンターで、あかりは薄めのドリップコーヒーを淹れていた。


 お湯の量を少し多めにして、あっさりとした味に仕上げる。


「最初は薄くても、だんだん濃くしていけばいいのよね」


 あかりは独り言のように呟きながら、カップを見つめた。


「急に濃くすると、苦くて飲めなくなっちゃう。恋も、きっと同じ」


 *


 恋愛において、「ちょうどいい距離感」を保つのは難しい。近すぎれば重いと思われ、遠すぎれば冷たいと思われる。


 橘さんとの初デートから1週間。


 あかりは、少し複雑な表情をしていた。


「乾さん、ちょっと聞いてもらえる?」


 昼休憩の時、あかりが乾さんに相談を持ちかけた。


「もちろんです。デートはいかがでしたか?」


「それが...」


 あかりは少し困った顔をした。


「とても楽しかったの。橘さんは優しくて、気遣いもできて、完璧な紳士だった」


「それは良かったじゃないですか」


「でも...」


 あかりは言葉を選ぶように続けた。


「なんだか、物足りないというか...」


「物足りない?」


「橘さんは、私の意見を全部聞いてくれるの。『どこに行きたい?』『何が食べたい?』『疲れてない?』って、すごく気を遣ってくれる」


「素敵な方ですね」


「そうなの。でも...」


 あかりは窓の外を見つめた。


「彼のドリップは、まだ味が薄いのかもしれない」


「味が薄い?」


「優しすぎて、彼の本当の気持ちが見えないの。私に合わせてくれるのは嬉しいけど、彼自身はどうしたいのかが分からない」


 乾さんは、あかりの悩みを理解した。


「確かに、相手のことを知りたいのに、相手が自分を出してくれないと困りますね」


「そうなの。私、彼の本音が聞きたい」


 その時、店の入り口から橘さんが入ってきた。


「こんにちは、あかりさん」


「橘さん、いらっしゃいませ」


「今日は、どんなコーヒーがおすすめですか?」


 橘さんは、いつものように丁寧に尋ねた。


「えっと...」


 あかりは少し迷った。いつもなら、橘さんの好みに合わせて提案するところだが、今日は違うことを試してみたくなった。


「橘さんは、どんなコーヒーが飲みたい気分ですか?」


「え?」


「私のおすすめじゃなくて、橘さん自身が飲みたいものを教えてください」


 橘さんは少し戸惑った。


「でも、あかりさんのおすすめの方が...」


「お願いします。橘さんの好みを知りたいんです」


 あかりの真剣な表情に、橘さんは少し考えた。


「...実は、苦いコーヒーが好きなんです」


「苦いコーヒー?」


「はい。エスプレッソとか、深煎りのブラックとか。でも、あかりさんは優しい味のコーヒーを作るのが得意だから、言い出せなくて...」


 あかりは驚いた。


「そうだったんですか」


「すみません、わがままを言って」


「いえ、全然わがままじゃありません」


 あかりは嬉しそうに微笑んだ。


「深煎りのエスプレッソ、作らせてください」


「本当ですか?」


「はい。橘さんの好みに合わせて、一番苦いやつを」


 あかりは、いつもより濃いエスプレッソを抽出した。


 橘さんは、それを一口飲んで、顔をほころばせた。


「...美味しい。すごく美味しいです」


「良かった」


「やっぱり、あかりさんの淹れるコーヒーは最高ですね」


「でも、今度からは遠慮しないでください。橘さんの好みを教えてください」


「分かりました」


 橘さんは少し照れながら続けた。


「実は、他にも言えないことがあって...」


「何ですか?」


「この前のデート、僕はアクション映画が見たかったんです。でも、あかりさんが恋愛映画の方がいいかなと思って...」


 あかりは思わず笑った。


「私も、実はアクション映画の方が好きなんです」


「え?」


「でも、橘さんが恋愛映画の方がいいかなと思って、我慢してました」


 二人は顔を見合わせて、大笑いした。


「僕たち、お互いに気を遣いすぎてたんですね」


「そうですね」


 あかりは、橘さんの手を握った。


「今度のデートは、お互いの本音で楽しみましょう」


「はい」


 その時、乾さんが感動のあまり、思わず拍手してしまった。


「パチパチパチ!」


「乾さん、見てたの?」


「すみません、つい...でも、すごく素敵で!」


 乾さんは目をキラキラさせている。


「私も、拓海くんに本音を言ってみます!実は、ホラー映画が大好きなんです!」


「え、ホラー映画?」


 あかりと橘さんは驚いた。


「はい!血がドバーって出るやつとか、ゾンビがウワーって出てくるやつとか!」


 乾さんは嬉しそうに手をブンブン振り回している。


「乾さん、意外な一面が...」


「でも、拓海くんがビックリしちゃうかも...」


「大丈夫ですよ。本当の自分を知ってもらうのが一番です」


 橘さんが優しく励ました。


 三人は笑い合った。


 その夜、あかりは一人でコーヒーを淹れながら考えていた。


「最初は薄くても、だんだん濃くしていけばいいのよね」


 橘さんとの関係は、まだ始まったばかり。


 お互いに気を遣いすぎて、本当の自分を出せないでいた。


 でも、今日から少しずつ、本音を言い合えるようになった。


「恋の焙煎は、時間をかけて、ゆっくりと」


 あかりは微笑んだ。


 急がなくていい。


 少しずつ、お互いを知っていけばいい。


 そうすれば、きっと最高の一杯が出来上がる。


 *


 次回:第26話以降、物語は新たな展開へ!


 #渋谷クロスカフェ #恋愛の距離感 #本音を言う勇気 #気遣いすぎる関係 #恋の焙煎 #時間をかけて

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