第23話「鎮火の合図は、いつものブレンドコーヒー。」

 嵐の後は、静けさが訪れる。


 そして、その静けさの中でこそ、本当に大切なものが見えてくる。


 今日は、そんな「日常への回帰」を実感した一日だった。


 *


 朝の穏やかなカウンターで、あかりはいつものブレンドコーヒーを淹れていた。


 特別な豆でも、特別な技術でもない。ただ、毎日変わらず提供している、お店の基本のコーヒー。


「いつものブレンドが、一番落ち着くのよね」


 あかりは独り言のように呟きながら、カップに注いだ。


「派手さはないけれど、毎日飲んでも飽きない。それが一番の価値かもしれない」


 *


 嵐の後は、静けさが訪れる。そして、その静けさの中でこそ、本当に大切なものが見えてくる。


 ハルが自立を宣言してから1週間。


 店には、穏やかな日常が戻っていた。


 バズの熱狂も完全に冷め、客足は以前の水準に戻った。でも、それでいい。あかりは、そう思っていた。


「田中さん、おはようございます」


「おはよう、あかりちゃん。今日も元気だね」


「はい。いつものドリップコーヒーですね」


「そうそう。やっぱり、いつものが一番だよ」


 田中さんとの何気ない会話。それが、あかりにとって一番の宝物だった。


「佐藤さんも、お疲れ様です」


「あかりちゃん、いつものカフェラテお願いします」


「はい。今日は少し甘めにしておきますね」


「分かる?ありがとう」


 常連客との、何年も続いている関係。それは、どんなバズよりも価値があった。


 昼休憩の時、乾さんが話しかけてきた。


「黒木さん、最近とても落ち着いてますね」


「そう?」


「はい。前は、何かに追われているような感じでしたが、今は自然体で」


 乾さんの観察は的確だった。


「そうかもしれないわね。やっと、自分のペースを取り戻せた気がする」


「私も、勉強になりました」


「え?」


「バズの時期を見ていて、本当に大切なものが何かを考えさせられました」


 乾さんは、真剣な表情で続けた。


「効率も大切だけど、お客様一人ひとりとの関係が一番大切だって分かりました」


「乾さん...」


「黒木さんから学んだことを、私なりに実践していきたいと思います」


 あかりは、乾さんの成長を嬉しく思った。


「一緒に頑張りましょう」


「はい!」


 その時、店の入り口から神田マネージャーが入ってきた。


 久しぶりの登場に、あかりは少し緊張した。


「黒木さん、お疲れ様」


「神田マネージャー、お疲れ様です」


 神田マネージャーは、店内をキョロキョロと見回した。まるで迷子になった子供のような動きだ。


「落ち着いた雰囲気ですね」


「はい...」


 あかりは緊張していたが、神田マネージャーの様子がなんだかおかしい。


「実は、本社の件ですが」


 あかりは身構えた。


「山田部長の提案は、白紙に戻すことになりました」


「え?」


 神田マネージャーは、なぜか汗をかいている。


「あなたの記事の件で、本社が大騒ぎになりまして...役員会議で6時間も議論して...私、会議室で3回居眠りしました」


「え、そうなんですか...」


「結果として、画一的なマニュアル化よりも、各店舗の個性を活かす方向で進めることになったんです」


 あかりは驚いた。


「つまり、あなたのやり方を否定するつもりはない、ということです」


「そうなんですか...」


「ただし」


 神田マネージャーは、急に真面目な顔になろうとしたが、なぜか目がピクピクしている。


「基本的な効率は守ってください。その上で、あなたらしい接客を...あ、すみません、目にゴミが」


 神田マネージャーは目をパチパチさせながら続けた。


「していただければ」


「はい、分かりました」


 あかりは、神田マネージャーの人間らしい一面を見て、少しほっこりした。


「それと...」


 神田マネージャーは、カウンターに座った。


「ブレンドコーヒーを一つ、お願いします」


「はい、かしこまりました」


 あかりは、いつものブレンドコーヒーを淹れた。


 神田マネージャーは、それを一口飲んで、目を丸くした。


「...美味しいですね」


「ありがとうございます」


「これが、あなたの言う『味』ですか」


「はい。特別なことは何もしていません。ただ、心を込めて淹れただけです」


 神田マネージャーは、コーヒーをもう一口飲んで、なぜか感動したような顔になった。


「実は...私、普段はインスタントコーヒーしか飲まないんです」


「え?」


「効率重視で、3分で済ませてました。でも、これは...」


 神田マネージャーは、コーヒーカップを大事そうに両手で包んだ。


「時間をかける価値があるんですね」


 あかりは思わず微笑んだ。


「分かりました。これからも、この『味』を大切にしてください」


「はい」


 神田マネージャーは立ち上がりながら、小声で付け加えた。


「...今度、美味しいコーヒーの淹れ方、教えてもらえませんか?」


「もちろんです」


 あかりは嬉しそうに答えた。


 神田マネージャーが帰った後、あかりはホッとした。


「やっと、嵐が過ぎ去ったのね」


 その夜、橘さんがやってきた。


「お疲れ様です」


「橘さん、お疲れ様」


「今日は、どんな一日でしたか?」


「穏やかな一日でした。やっと、いつもの日常が戻ってきた感じです」


「それは良かった」


 橘さんは、あかりの隣に座った。


「あかりさん、僕からお願いがあります」


「何でしょう?」


「今度の休日、一緒に過ごしませんか?」


 あかりは少し照れた。


「デート、ですか?」


「はい。正式に、お付き合いをお願いしたくて」


 あかりは、少し考えてから答えた。


「...はい。喜んで」


「本当ですか?」


「はい。橘さんとなら、きっと楽しい時間を過ごせると思います」


 二人は、幸せそうに微笑み合った。


 その様子を見ていた乾さんが、小さく拍手した。


「おめでとうございます!」


「乾さん、見てたの?」


「すみません、つい...」


 三人は笑い合った。


 店には、温かい空気が流れていた。


 バズの熱狂も、週刊誌の騒動も、すべて過去のこと。


 今は、ただ穏やかな日常がある。


 それが、あかりにとって一番の幸せだった。


 *


 次回:第24話「恋のレシピは、アドリブで完成する。」


 #渋谷クロスカフェ #日常への回帰 #神田マネージャーとの和解 #橘さんとの恋愛進展 #穏やかな幸せ #いつものブレンド

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