第22話「その一杯は、誰のためのドリップですか?」

 一番届けたい人に、言葉が届かない。


 ライターとして、弟として、こんなにもどかしいことはない。


 でも、時には距離を置くことも、愛情の表現なのかもしれない。


 今日は、そんな「見守る愛」について考えさせられる一日だった。


 *


 夕方の静かなカウンターで、あかりは一人でコーヒーを淹れていた。


 でも、今日は自分のためではない。誰かを思い浮かべながら、丁寧にドリップしている。


「この一杯は、誰のため?」


 あかりは独り言のように呟きながら、最後の一滴を待った。


「遠くにいる人のためのコーヒーって、どうやって淹れるのかしら」


 出来上がったコーヒーは、いつもより優しい味がした。


 *


 一番届けたい人に、言葉が届かない。ライターとして、弟として、こんなにもどかしいことはない。


 週刊誌記者の件から数日。


 あかりは以前の調子を取り戻し、いつものように常連客との穏やかな時間を過ごしていた。


 でも、僕の心には、もやもやしたものが残っていた。


「俺の記事が、結果的に姉ちゃんを苦しめたんじゃないか...」


 バズによって期待値が上がりすぎ、あかりが疲弊した。週刊誌記者に狙われることにもなった。


「あんたには分からないわよ」


 以前、姉にそう言われた時の言葉が、頭から離れない。


 僕は姉を助けたつもりだったが、本当に姉のためになったのだろうか。


「ハル、どうしたの?元気ないじゃない」


 あかりが心配そうに声をかけてきた。


「別に、何でもないよ」


「嘘。顔に書いてあるわよ」


 姉の観察眼は、相変わらず鋭い。


「...姉ちゃん、俺の記事のせいで大変だったでしょ?」


「え?」


「バズって、期待値が上がって、週刊誌に狙われて...俺、余計なことしたのかな」


 あかりは、僕の隣に座った。


「ハル、あんた何言ってるの」


「だって...」


「あんたの記事がなかったら、私は自分の価値を見失ったままだった」


 あかりは、窓の外を見つめながら続けた。


「神田マネージャーに言われた時、私は自分のやり方が間違ってるんじゃないかって思った。でも、あんたの記事を読んで、私のやってきたことは無駄じゃなかったって分かった」


「でも、大変だったでしょ?」


「大変だったけど、それも含めて勉強になった。本当に大切なものが何かを、改めて確認できた」


 あかりは僕の方を向いた。


「あんたは、私を救ってくれたのよ。ありがとう」


 その言葉に、僕の胸の奥が温かくなった。


「でも、これからは少し距離を置こうと思うんだ」


「え?」


「俺、ライターとして独り立ちしたい。いつまでも姉ちゃんのことばかり書いてるわけにはいかないし」


 あかりは少し寂しそうな顔をしたが、すぐに微笑んだ。


「そうね。あんたも、自分の道を歩まなきゃ」


「でも、時々は顔を出すよ」


「当然でしょ。私の弟なんだから」


 その時、店の入り口から橘さんが入ってきた。


「こんにちは、黒木さん」


「橘さん、いらっしゃいませ」


 あかりの表情が、パッと明るくなった。


「今日は、僕が淹れたコーヒーを持ってきました」


 橘さんは、保温ボトルを取り出した。


「家で練習したんです。どうでしょうか?」


 あかりは、橘さんが淹れたコーヒーを一口飲んだ。


「...美味しいです。すごく上達しましたね」


「本当ですか?」


「はい。心がこもってます」


 二人の会話を見ていて、僕は微笑ましい気持ちになった。


「橘さん、姉ちゃんをよろしくお願いします」


「え?」


 橘さんは驚いた顔をした。


「僕、これからは自分の仕事に集中するので、姉ちゃんのことは橘さんに任せます」


「ハル、何言ってるのよ」


 あかりは慌てたが、僕は続けた。


「橘さんなら、姉ちゃんを幸せにしてくれると思います」


「ハルさん...」


 橘さんは真剣な表情になった。


「分かりました。僕も、あかりさんを大切にします」


「よろしくお願いします」


 僕は立ち上がった。


「じゃあ、俺はこれで」


「もう帰るの?」


「うん。新しい記事のネタを探しに行く」


 僕は、いつものネタ帳をカウンターに置いた。


「これ、姉ちゃんにあげる」


「え?」


「俺と姉ちゃんの思い出が詰まってる。大切にして」


 あかりは、ネタ帳を手に取った。


「ありがとう...でも、本当にいいの?」


「うん。俺、新しいネタ帳を買うから」


 僕は店を出る前に、振り返った。


「姉ちゃん、今まで本当にありがとう。姉ちゃんから学んだこと、絶対に忘れない」


「ハル...」


「でも、これからは俺の言葉で、俺の物語を書いていく」


 あかりの目に、涙が浮かんでいた。


「頑張って。応援してるから」


「ありがとう」


 僕は店を出た。


 振り返ると、あかりと橘さんが並んで座っているのが見えた。


 二人とも、幸せそうな顔をしている。


「よし、これで安心だ」


 僕は新しいネタ帳を買いに、文房具店に向かった。


 表紙に「新しい物語」と書いて、最初のページを開く。


『姉から卒業した日。そして、新しい物語の始まり』


 僕の新しい挑戦が、今日から始まる。


 姉ちゃんは、もう一人で大丈夫だ。


 橘さんがいるし、常連客もいる。


 そして何より、姉ちゃん自身が強くなった。


 僕は、安心して自分の道を歩いていける。


 *


 次回:第23話「鎮火の合図は、いつものブレンドコーヒー。」


 #渋谷クロスカフェ #ハルの自立 #姉弟の絆 #見守る愛 #新しい物語 #橘さんとの関係進展

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