第20話「カウンターの向こうから、波が来た日。」

 僕が投じた小さな一滴は夜の間に静かに広がり、朝になる頃には大きな波となってこのカウンターに押し寄せてきた。


 でも波は時として予想もしない方向に進んでいく。


 今日はそんな波の力とその行方について考えさせられる一日だった。


 ◆


 朝の光が差し込むカウンターであかりは普段の倍の速度でコーヒーを淹れていた。


 エスプレッソマシンが休む間もなく唸りミルクスチームの音が途切れることがない。


「一杯一杯心を込めて」


 あかりは汗を拭いながらそれでも丁寧にラテアートを描く。


「でもこんなにたくさんの人に私の想いは届くのかしら」


 カウンターの向こうには記事を読んでやってきた人たちの長い列が続いていた。


 ◆


 渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第20話。


 僕が投じた小さな一滴は夜の間に静かに広がり、朝になる頃には大きな波となってこのカウンターに押し寄せてきた。


 記事が公開されてから3日。


 店の状況は完全に変わっていた。


 開店前から行列ができ閉店まで客足が途切れることがない。SNSでは「#渋谷クロスカフェ哲学」というハッシュタグがトレンド入りしテレビの情報番組でも取り上げられた。


「記事を読んで感動しました!」


「あかりさんに人生相談したいです!」


「コーヒー哲学、教えてください!」


 訪れる客は皆、期待に満ちた目をしている。


 でもあかりの表情は複雑だった。


「ハル、これって本当に良いことなのかしら...」


 昼休憩の時、あかりが僕に不安を打ち明けた。


「どういうこと?」


「みんな私に何か特別なことを期待してる。でも私はただのバリスタよ。そんなに大したことはできない」


 確かに客の中には「記事に書いてあった奇跡を起こして」と無茶な要求をする人もいた。あかりは一人ひとりに真摯に対応しているが明らかに疲れている。


「姉ちゃん...」


「それに常連のお客様が来づらくなってる。田中さんも佐藤さんも最近見かけないでしょ?」


 言われてみれば確かにそうだった。いつもの常連客の姿が見えない。


「私、大切なものを失ってしまったのかもしれない」


 あかりの言葉に僕の胸が痛んだ。


 ◆


 その時、店の入り口から神田マネージャーが入ってきた。今度は一人ではない。本社の役員らしき人物を連れている。


「黒木さん、紹介します。本社の営業部長の山田です」


「お疲れ様です」


 山田部長は店内の賑わいを見回しながら言った。


「素晴らしい成果ですね。この3日間で売上が前月比300%増。本社でも大きな話題になっています」


「ありがとうございます」


 あかりは戸惑いながら答えた。


「実はあなたの接客手法を全店に展開したいと考えています。『あかり式コーヒー哲学』としてマニュアル化できませんか?」


「え?」


「全国のスタッフに研修を行いどの店でも同じような体験を提供できるようにしたいんです」


 山田部長の提案にあかりは困惑した。


「でも私のやり方は...マニュアル化できるようなものじゃ...」


「大丈夫です。専門のチームが分析して再現可能な形にします」


 神田マネージャーも続けた。


「君の哲学が会社の利益に繋がることが証明された。これは素晴らしいことだ」


 でもあかりの表情は晴れなかった。


「少し考えさせてください」


「もちろんです。でもあまり時間はありません。来月には全店展開を始めたいので」


 山田部長たちが帰った後、あかりは一人でカウンターに立っていた。


「姉ちゃん、どうするの?」


「分からない...」


 あかりは窓の外を見つめながら呟いた。


「私の哲学をマニュアル化するってそれって矛盾してない?」


「確かに...」


「一人ひとりの表情を見てその人に合わせて接客する。それをマニュアルにするってどういうことなのかしら」


 ◆


 その時、店の入り口から見慣れた人影が現れた。


 田中さんだった。


「あかりちゃん、久しぶり」


「田中さん!」


 あかりの顔がパッと明るくなった。


「最近来てくださらなかったから...」


「いやなんか人が多くて入りづらくてね。でも今日は少し落ち着いてるみたいだから」


 田中さんはいつものようにカウンターに座った。


「いつものドリップコーヒーで」


「はいかしこまりました」


 あかりは久しぶりに自然な笑顔で田中さんのコーヒーを淹れ始めた。


 いつもより丁寧にいつもより心を込めて。


「やっぱりあかりちゃんのコーヒーが一番だな」


 田中さんが一口飲んで満足そうに微笑んだ。


「ありがとうございます」


「テレビで見たよ。有名になったんだってね」


「そうなんです...でも正直戸惑ってます」


「そうだろうね。でも俺は知ってる。あかりちゃんの本当の良さを」


 田中さんはコーヒーを飲みながら続けた。


「有名になる前からあかりちゃんはいつも俺たちのことを気にかけてくれた。それはマニュアルでも何でもない。あんたの心から出てくるものだ」


「田中さん...」


「だからどんなに有名になってもそれを忘れないでくれ。俺たちはそのあかりちゃんが好きなんだから」


 田中さんの言葉にあかりの目に涙が浮かんだ。


「ありがとうございます。私、大切なことを思い出しました」


 ◆


 その夜、あかりは僕に言った。


「ハル、私決めた」


「何を?」


「本社の提案は断る。私の哲学はマニュアル化できるものじゃない」


「でもそれって...」


「私の哲学は目の前の一人のために淹れる一杯のコーヒーなの。それを全国展開するなんて本末転倒よ」


 あかりの表情は迷いがなかった。


「でも記事のおかげでたくさんの人が来てくれるようになった。それは嬉しいことよ」


「じゃあどうするの?」


「一人ひとりと向き合う。それしかできないしそれが私のやり方」


 あかりは微笑んだ。


「あんたの記事は私に大切なことを思い出させてくれた。私は何のためにコーヒーを淹れているのかということを」


 僕はその言葉をいつものネタ帳に書き留めた。


『波は大きくても一滴一滴の想いを忘れてはいけない』

『本当の価値はマニュアル化できないところにある』


 僕が投じた一滴は確かに大きな波になった。


 でもその波の本当の意味を理解したのは姉ちゃんだった。


 明日からまた新しい挑戦が始まる。


 でも今度は迷いがない。


 姉ちゃんは自分の道を見つけたのだから。


(第20話完 次話へ続く)


 次回予告:

 バズって、ビター・ブレンドで後味がちょっと苦いんです。


 #渋谷クロスカフェ #バズの光と影 #マニュアル化の矛盾 #本当の価値 #信念の再確認 #一人ひとりと向き合う

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る