第19話「僕の言葉は、ちゃんとドリップできてますか?」

 姉の言葉はいつも僕を救ってくれた。


 今度は僕の言葉が姉を救う番だ。


 たとえそれがまだ未熟な抽出だとしても。


 今日はそんな覚悟を決めた一日だった。


 ◆


 深夜のカウンター、一人残ったあかりがハンドドリップでコーヒーを淹れていた。


 蒸らしの時間もお湯を注ぐ速度もいつもより慎重だ。


「一滴一滴に想いを込めて」


 あかりは独り言のように呟きながら最後の一滴が落ちるのを待った。


「でも想いだけじゃ伝わらない。ちゃんと形にしないと」


 出来上がったコーヒーは今まで淹れた中で一番深い味がした。


 ◆


 渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第19話。


 姉の言葉はいつも僕を救ってくれた。今度は僕の言葉が姉を救う番だ。たとえそれがまだ未熟な抽出だとしても。


 神田マネージャーの改革実行日が迫る中、あかりは自分のやり方と会社の方針との間で悩み続けていた。


 新しいスタイルで接客を続けているものの店の空気は以前ほど軽やかではない。常連客の足も少しずつ遠のいている気がする。


「田中さん、最近来ないわね...」


 あかりが寂しそうに呟くのを聞いて僕の胸が痛んだ。


 姉の苦悩と失われそうな店の"味"。僕は自分にできることは何かを必死に考えた。


 そしてこれまで書き溜めてきた「渋谷クロスカフェのログ」を一つの完成された記事にすることを決意した。


「姉ちゃんの哲学をただの自己満で終わらせない。俺が"翻訳"してその価値を証明するんだ」


 その夜、僕は寝る間も惜しんで記事を書き上げた。


 それはただの店舗紹介ではない。あかりの言葉がいかに客の心を軽くしこの店が人々にとってどんなに大切な"場所"になっているかを弟の視点から愛を込めて綴ったドキュメンタリーだった。


『僕の姉は渋谷の片隅でコーヒーと一緒に人生をドリップしている』


 記事の中で僕は姉から学んだ数々のエピソードを紹介した。


 ◆


 クライアントから「なんかいい感じにしてください」と言われて途方に暮れていた僕に姉はこう言った。


「それってお客さんに『なんか美味しいコーヒーください』って言われるのと同じよ。好みも聞かずにいきなり美味しいものは出せないでしょ?」


 姉の質問術は相手の心の中にある「いい感じ」を引き出すことから始まる。それはコーヒーを淹れる前に豆の産地を確認するのと同じくらい基本的で大切なことだった。


 既読スルーに悩む友人に姉は「蒸らし時間」の話をした。


「美味しいコーヒーを淹れる時は最初にお湯を少しだけ注いで30秒くらい待つ時間があるの。その待つ時間があるから豆がしっかり膨らんで美味しさが最大限に引き出される」


 人間関係も同じ。焦って言葉を注ぎすぎると相手の味が薄まるだけ。時には沈黙という名の蒸らし時間が必要なのだ。


 煮詰まった会議をしていたサラリーマンたちに姉は特製のアフォガート風フラペチーノを作った。


「熱い議論の後には冷たくて甘いものでクールダウンするのが一番ですよ。熱いものと冷たいもの、混ぜてみたら意外と美味しいかもしれません」


 対立する意見も間に甘い何かを挟めば新しい味が生まれる。姉の言葉通り彼らは「もう一回最初から話しませんか?」と建設的な議論を始めた。


 ◆


「この店はただコーヒーを売る場所じゃない。人の心を温める場所なんだ」


「効率も大切だけど一人ひとりの表情を見ることを忘れたらそれはもうコーヒーショップじゃなくてただの自動販売機になってしまう」


「姉の哲学は決して自己満足じゃない。現代人が忘れかけている人と人とのつながりを思い出させてくれる大切な"味"なんだ」


 記事の最後に僕はこう書いた。


「僕はこの店で学んだ。人生の悩みは一杯のコーヒーと一緒に少しだけ軽くなるということを。そしてそんな場所を守りたいと思う人がいるということを。


 姉は今、会社の効率化という波に飲まれそうになっている。でも僕は信じている。本当に価値のあるものは数字では測れない。それは一杯のコーヒーに込められた想いでありお客様の笑顔であり人と人とのつながりなのだから」


 書き上げた記事を僕は震える指でWEBメディアに投稿した。


 田村編集者に「緊急で掲載してもらえませんか?」とメールを送る。


「この記事には僕の全てが込められています。姉をそしてこの店を救いたいんです」


 投稿ボタンを押した後、僕はカウンターでコーヒーを飲むあかりの背中を見つめた。


「姉ちゃん...届くかな、俺の言葉」


 ◆


 翌朝、僕のスマホが鳴り止まなかった。


「ハルくんすごいよ!記事、とんでもなくバズってる!」


 田村編集者から興奮した電話がかかってきた。


「SNSでも拡散されまくってる。コメント欄も感動の嵐だよ」


 僕は慌てて記事を確認した。


 確かにアクセス数は普段の10倍以上。コメント欄には読者からの温かいメッセージが溢れていた。


「私もこんな店員さんに出会いたい」


「効率ばかり重視する現代にこういう場所が必要」


「この記事を読んで久しぶりにクロスカフェに行きたくなった」


「弟さんの愛情が伝わってきて涙が出ました」


 店を開けるとそこには開店待ちの行列ができていた。


 客たちは口々に「記事を読みました!」「黒木さんの話が聞きたくて!」と笑顔で話しかけてくる。


「あの記事に書いてあった『質問術』、教えてもらえませんか?」


「私も人生相談したいです」


「このお店の雰囲気、本当に記事の通りですね」


 店は一日中、記事を読んだ新規の客でごった返し活気に満ち溢れていた。


 あかりは突然の事態に戸惑いながらも訪れる客一人ひとりに真摯に向き合った。乾さんも目の前の客の笑顔を見てマニュアルだけでは得られない"何か"を実感していた。


 ◆


「ハル...これあんたが書いたの?」


 昼休憩の時、あかりが記事を読み終えて僕に尋ねた。


「うん。姉ちゃんから学んだこと全部書いた」


「...ありがとう」


 あかりの目に涙が浮かんでいた。


「私の言葉がちゃんと伝わってたのね」


「姉ちゃんの哲学は本物だよ。俺が証明したかった」


「でもあんたの文章力があったからこんなに多くの人に届いたのよ」


 あかりは僕の肩に手を置いた。


「あんたの言葉、ちゃんとドリップできてたわ」


 その時、店の入り口から神田マネージャーが血相を変えて入ってきた。


「黒木さん、この記事は一体何だ!」


 彼は怒っているかと思いきや信じられないものを見るような目で店内の賑わいを見つめていた。


「本社の広報部からも問い合わせが来ている。一体何をしたんだ...」


 神田マネージャーの絶対的な"正論"が予期せぬ"感情"の波に揺らぐ瞬間だった。


 僕はカウンターの中心で輝く姉の姿を見つめた。


「...届いたんだ」


 僕の言葉は確かにドリップされ多くの人の心に届いた。


 でもこれはまだ序章に過ぎない。この波が渋谷店をそしてあかり自身の運命をどう変えていくのか。


 物語は新たなステージへと突入する。


(第19話完 次話へ続く)


 次回予告:

 カウンターの向こうからふわっと波が来た日。


 #渋谷クロスカフェ #ハルの成長 #記事がバズる #姉弟の絆 #言葉の力 #新たなステージ

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