第16話「その"味"、本社のレシピにありません。」

 順調な日常はいつだって突然現れる"異物"によってかき乱される。


 それは時として苦味も酸味も強すぎる、あまりにも厄介な豆の形でやってくる。


 今日、僕たちの店に投入されたのはそんな一粒だった。


 そして僕は初めて姉の哲学が試される瞬間を目撃することになる。


 ◆


 午後の忙しい時間帯、あかりは手際よく次々とオーダーをこなしていた。


 エスプレッソマシンの音、ミルクスチームの歌声、そして客たちの笑い声が店内に響く。


「いつものブレンドで」「少し甘めに」「今日は苦いのが飲みたい気分」


 一人ひとりの好みに合わせてあかりは微調整を加えながらコーヒーを淹れていく。


「この店の"味"はレシピ通りじゃ出せないのよ」


 あかりは独り言のように呟きながら常連客の顔を思い浮かべてミルクの量を調整した。


「お客様一人ひとりの表情の中にあるの」


 ◆


 渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第16話。


 順調な日常はいつだって突然現れる"異物"によってかき乱される。今日、僕たちの店に投入されたのは苦味も酸味も強すぎる、あまりにも厄介な豆だった。


 午後3時の店内。いつものように賑やかな時間帯だった。


 あかりは常連客との軽やかな会話を楽しみながら一人ひとりに合わせたコーヒーを提供している。


「田中さん、今日も濃いめですね」


「ありがとう、あかりちゃん。君のコーヒーが一番だよ」


「佐藤さんはいつものカフェラテで。今日は少し疲れてそうだから甘めにしておきますね」


「分かる?やっぱりあかりちゃんはすごいなあ」


 そんな和やかな雰囲気の中、店の入り口から一人の男性が入ってきた。


 スーツを隙なく着こなした鋭い目つきの男性。年齢は40代前半くらいだろうか。


 彼は客のフリをして店内を観察し始めた。あかりの"お節介ドリップ"や常連客との馴れ合いのような会話をスマホにメモしている。


(なんか嫌な感じの人だな...)


 僕は直感的に警戒心を抱いた。


 男性は一通り観察を終えるとカウンターに向かった。


「ドリップコーヒーを一つ」


「かしこまりました。本日のおすすめは...」


「結構です。普通のドリップコーヒーで」


 あかりは少し戸惑ったが丁寧にコーヒーを淹れて差し出した。


 男性はそれを受け取ると一口飲んで眉をひそめた。


「...これは本社のレシピ通りですか?」


「え?」


「味が標準と違うようですが」


 あかりの表情が強張った。


「申し訳ございません。もしお気に召さなければ作り直し...」


「いえ、結構です」


 男性は席に着きコーヒーを飲みながら再び店内の様子を観察し続けた。


 ◆


 営業が終わった後、男性はスタッフを集めて身分を明かした。


「地区マネージャーの神田です」


 店内の空気が一瞬で凍りついた。


「渋谷店はエリア内でもトップクラスの売上だ。それは評価している」


 神田マネージャーは冷静な口調で続けた。


「だがオペレーション効率は最低レベルだ」


 彼はあかりを見据えて言った。


「黒木さん。君の長すぎる世間話やマニュアルにないアドバイスは完全な"無駄"だ」


 あかりの顔が青ざめた。


「スターバックスは"体験"を提供する場だがそれは均一化された高い品質の上に成り立つ。君の個人的な判断による味の調整はブランドの統一性を損なう」


「でもお客様一人ひとりに合わせて...」


「それが問題だ」


 神田マネージャーはあかりの言葉を遮った。


「来月から全店統一の接客マニュアルを徹底してもらう。人員も見直す必要があるかもしれない」


 店の空気がさらに重くなった。


 あかりは静かにしかし強い意志を持って反論した。


「この店の"味"はマニュアルの中だけにはありません。お客様一人ひとりの表情の中にあります」


「君の個人的な哲学は会社の利益には繋がらない」


 神田マネージャーは冷たく言い放った。


「効率化こそが現代のサービス業に求められるものだ。感情論ではビジネスは成り立たない」


「でも...」


「議論は無用だ。来月から新体制で運営する。それまでに君たちには意識を改めてもらう」


 神田マネージャーはそう宣告して去っていった。


 ◆


 バックヤードには重い沈黙が流れた。


 乾さんは震えながら立ち尽くしあかりは下を向いたまま動かない。


 僕はただ事ではない嵐の予感に身を震わせた。


「姉ちゃん...」


「大丈夫よ」


 あかりは顔を上げたがその笑顔はいつもより少し弱々しかった。


「でも神田マネージャーの言うことにも一理あるのかもしれない」


「そんなことないよ。姉ちゃんの接客は最高だ」


「ありがとうハル。でも...」


 あかりは窓の外を見つめた。


「もしかしたら私のやり方はただの自己満足だったのかもしれない」


 その夜、僕は今日の出来事をネタ帳に書こうとしたが手が止まった。


 いつものような軽やかな気持ちになれない。


 姉の哲学が初めて大きな壁にぶつかった。


 効率と心、マニュアルと個性、会社の利益と客の笑顔。


 どちらが正しいのか僕には分からなかった。


 ただ一つ確かなのは今日から僕たちの日常が変わってしまうということだった。


 嵐はまだ始まったばかりだった。


(第16話完 次話へ続く)


 次回予告:

 哲学だけじゃ、エスプレッソって淹れられないんです。


 #渋谷クロスカフェ #神田マネージャー #効率vs心 #マニュアルvs個性 #転換点 #嵐の始まり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る