第15話「休日出勤は、秘密のテイスティング。」

 休日。それは戦士の休息。


 のはずが僕はうっかり、姉という名の戦場(ワークプレイス)に大事な武器(充電器)を忘れてきてしまった。


 そして今日、僕は姉の見たことのない一面を目撃することになる。


 それはバリスタとしてではなく、一人の女性としての顔だった。


 ◆


 閉店後の静寂に包まれたカウンターで、あかりは様々な種類のコーヒー豆を並べていた。


 エチオピア、グアテマラ、コロンビア、ブラジル...世界各国の豆がまるで宝石のように輝いている。


「テイスティングは豆との対話なの」


 あかりは一粒の豆を手に取り香りを確かめる。


「一つ一つの豆に物語がある。その物語を一杯のコーヒーで表現するのがバリスタの仕事」


 ◆


 渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第15話。


 姉は他人の恋バナには首を突っ込むが、自分の恋の棚はホコリをかぶったまま放置されている。そう思っていた。今日までは。


 日曜日の夕方。僕はスマホの充電が切れそうになって慌てて充電器を取りに行くことにした。


「確かカウンターの下に置いたはず...」


 裏口の鍵はいつものように植木鉢の下に隠してある。姉ちゃんは用心が悪いなあといつも思うのだが、今日はそれが幸いした。


 そっと店内に入ると意外にも明かりがついていた。


「あれ?誰かいるの?」


 カウンターの方を見るとそこには私服姿のあかりと橘さんが二人きりで座っていた。


(うわ、これは...完全にデートじゃん)


 僕は慌てて物陰に隠れた。


 二人の前には様々な種類のコーヒーカップが並んでいる。どうやら新しいコーヒー豆のテイスティング(味見)をしているらしい。


「こっちの豆は酸味が強いけど、後味がスッキリしてるな」


 橘さんが一口飲んで感想を述べる。


「そうなんです!この豆の特徴をちゃんと分かってもらえて嬉しいです」


 あかりの顔がパッと明るくなった。


 普段のバリスタの顔とは違うリラックスした姉の笑顔。橘さんに見せる少しだけ女性らしい表情。


(姉ちゃん、こんな顔するんだ...)


 僕は物陰に隠れながら姉の見たことのない一面にドキマギしていた。


「黒木さんの淹れ方だと、豆の個性がすごく引き立ちますね」


「ありがとうございます。でもまだまだ勉強中です」


「そんなことないですよ。僕、コーヒーのことはよく分からないけど、あなたの淹れるコーヒーは特別だと思います」


 橘さんの素直な褒め言葉にあかりは少し照れた。


「橘さんも味の違いをちゃんと分かってくださるから、淹れがいがあります」


 二人の会話は仕事の話をしているようでその雰囲気は完全にデートだった。


「そうだ、今度僕が淹れますよ。お礼に」


 橘さんが提案した。


「え、橘さんがコーヒーを?」


「実はこの前からコーヒーの淹れ方を勉強してるんです。あなたに教えてもらいたくて」


「まあ、そうなんですか」


 あかりは嬉しそうに笑った。


「じゃあお手並み拝見ですね」


「プレッシャーかけないでくださいよ」


 橘さんも笑いながらカウンターの向こうに回った。


 そして慣れない手つきでドリッパーをセットし、お湯を沸かし始める。


「最初に豆を蒸らして...」


「そうです。30秒くらい待ってください」


「こんな感じですか?」


「もう少しゆっくりお湯を注いで。そう、上手です」


 あかりが優しく指導する様子はまるで恋人同士のようだった。


(うわー...見てらんない...!でもなんか微笑ましい)


 ◆


 橘さんが淹れたコーヒーが完成した。


「どうでしょう?」


「いただきます」


 あかりは一口飲んで少し考えた。


「...美味しいです」


「本当ですか?」


「はい。少し薄いけど優しい味がします。初心者にしてはとても丁寧に淹れられてますね」


「良かった...」


 橘さんはホッとした表情を浮かべた。


「でもまだまだ練習が必要ですね」


「そうですね。また教えてください」


「もちろんです」


 その甘い空気に僕は「うわー...見てらんない...!」と静かにその場を去ることを決意した。


 充電器をそっと回収し足音を立てないように店を出る。


 外に出てから僕は大きく息を吐いた。


「やれやれ...」


 でも悪い気分ではなかった。


 姉ちゃんのあんなに自然で幸せそうな笑顔を見たのは久しぶりだった。


 普段は他人の恋愛にアドバイスばかりしている姉が自分自身の恋を楽しんでいる。


 それは見ていてとても微笑ましかった。


 ◆


 その夜、僕は今日の出来事をネタ帳に書き留めた。


『姉の休日出勤。それは恋という名の新しい豆のテイスティングだった』

『バリスタの顔と女性の顔。どちらも姉ちゃんの大切な一面』


 あのインスタントコーヒー専門だった姉ちゃんについにハンドドリップの春が来るのかもしれない。


 橘さんの不器用なコーヒーも姉ちゃんには特別な味だったんだろう。


 完璧じゃないけど心のこもった一杯。


 それはきっと姉ちゃんが一番求めていた味だったのかもしれない。


 まあたまにはそういう甘いログも悪くない。


 僕はそんな気持ちを胸に家路についた。


 明日からまた姉ちゃんのコーヒー哲学を聞く日々が始まる。


 でも今度は少し違った気持ちで聞けそうだ。


 恋をしている姉ちゃんの哲学はきっと今までより温かいものになるだろう。


(第15話完 次話へ続く)


 次回予告:

 その味、本社のレシピにはないみたいです。


 #渋谷クロスカフェ #秘密のデート #テイスティング #姉の女性らしさ #弟の視点 #恋の進展

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