第14話「その劣等感、エスプレッソの苦味です。」

 憧れは時に自分を映す鏡になる。


 そして鏡に映る自分はいつも少しだけ小さく見えるものだ。


 でもその小ささこそが、実は一番大切な「基本」なのかもしれない。


 今日はそんな「劣等感の正体」について考えさせられる一日だった。


 ◆


 マシンの銀色が輝くカウンターで、あかりはポルトフィルターに細挽きのエスプレッソを詰め込んだ。


 レバーを引くと熱い湯気がふわりと舞い上がり、25秒の抽出が始まる。


 豆の圧力で絞り出される黄金の液体は細い糸のようにカップに落ち、クリーマの泡が優しく冠を成す。


「エスプレッソはね、全ての基本なの」


 あかりは出来上がったエスプレッソを見つめながら呟いた。


「苦くて強くて、一本筋が通ってる。そのままでも美味しいし、ラテやカプチーノのベースにもなれる」


 ◆


 渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第14話。


 憧れは時に自分を映す鏡になる。そして鏡に映る自分はいつも少しだけ小さく見えるものだ。


 今日の僕はそんな「劣等感」と向き合う人を目撃することになった。


 午後の静かな時間帯。新人・乾さんがバックヤードでため息をついているのが見えた。


 彼女はいつものようにマニュアルを片手に持っているが、その表情は暗い。


「乾さん、どうしたの?」


 僕が声をかけると、乾さんは少し驚いたような顔をした。


「あ、ハルさん...」


「何か悩み事?」


 乾さんは少し迷ってから重い口を開いた。


「私...この店に向いてないのかもしれません」


「え、なんで?」


「黒木さんを見てると、私には絶対にできないことばかりで...」


 乾さんはあかりが華麗な接客でお客様を笑顔にする姿と、マニュアル通りにしか動けない自分を比べてすっかり自信をなくしていた。


「私には黒木さんのような発想もトーク力もない。お客様を笑顔にできている気がしないんです」


 確かに乾さんは真面目で丁寧だが、あかりのような自由な発想力はない。でもそれが悪いことだとは思えなかった。


「でも乾さんの接客も素晴らしいよ。正確で安心できる」


「でもそれだけじゃ...」


 その時、あかりがバックヤードにやってきた。乾さんの落ち込んだ様子に気づいたようだ。


「乾さん、どうしたの?」


 僕が事情を説明するとあかりは理解したように頷いた。


「なるほどね」


 あかりはエスプレッソマシンの前に立ち、一杯のエスプレッソを抽出し始めた。


「乾さん。あなたは凝縮されたエスプレッソよ」


「エスプレッソ...?」


「そう。苦くて強くて、一本筋が通ってる。そのままでも美味しいし、ラテやカプチーノのベースにもなれる、全ての基本よ」


 あかりは出来上がったエスプレッソを乾さんの前に置いた。


「でも私はラテみたいに華やかじゃ...」


「私はミルクたっぷりのラテ。甘くて飲みやすいけど、エスプレッソがないとただの牛乳よ」


 あかりの言葉に乾さんはハッとした。


「どっちが偉いとかじゃない。どっちもこの店に必要なの」


「でも...」


「乾さんの真面目さがあるから、私は安心して"お節介"が焼けるんだから」


 あかりは乾さんの肩に優しく手を置いた。


「あなたがいつもマニュアル通りに正確な接客をしてくれるから、私は時々脱線できるの。基本がしっかりしてるから応用が利くのよ」


 乾さんの目に涙が浮かんだ。


「黒木さん...」


「それにお客様の中には、乾さんの丁寧で正確な接客を求めている人もたくさんいるのよ」


 確かにと僕は思った。急いでいるビジネスマンや初めて来店する人にとって、乾さんの安定した接客は安心できるはずだ。


「私、もっと頑張ります」


「頑張るのもいいけど、まずは自分の良さを認めることから始めましょう」


 あかりは微笑んだ。


「エスプレッソは苦いけれど、それが美味しさなの。乾さんも真面目すぎるって思うかもしれないけど、それがあなたの美味しさよ」


 ◆


 その時、一人の年配の男性客がカウンターにやってきた。


「すみません、注文をお願いします」


 乾さんは立ち上がりいつものように丁寧に対応した。


「いらっしゃいませ。ご注文をお伺いします」


「ドリップコーヒーを一つ。あの、いつも丁寧に対応してくれる方ですね」


 男性は乾さんを見て優しく微笑んだ。


「私、この店によく来るんですが、あなたの接客はいつも安心できます。ありがとう」


 乾さんの顔がパッと明るくなった。


「ありがとうございます!」


 男性が席に着いた後、乾さんは嬉しそうにあかりの方を見た。


「黒木さん、私...」


「どう?自分の良さ、少し分かった?」


「はい。私は私のやり方でお客様に安心を提供できるんですね」


「そういうこと。エスプレッソとラテ、どちらも美味しいコーヒー。違うからこそ最高のカップが生まれるのよ」


 ◆


 僕はその様子を見ながらいつものネタ帳に書き留めた。


『エスプレッソとラテ。違うからこそ最高のカップが生まれる』

『劣等感の正体は自分の基本を見失うこと』


 乾さんは自分と他人を比べて劣等感を抱いていた。でもそれぞれに違う良さがあることを理解した。


 姉ちゃんは人の心の「基本」を見つけるのが上手い。


 そしてその基本こそが一番大切なものなのかもしれない。


 エスプレッソのように苦くても、それが美味しさになる。


 乾さんの真面目さもきっと誰かにとっての「美味しさ」なんだろう。


(第14話完 次話へ続く)


 次回予告:

 休日出勤って、秘密のテイスティングなんです。


 #渋谷クロスカフェ #劣等感 #エスプレッソ #基本の大切さ #チームワーク #自己肯定感

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