第13話「新しい豆は、いつもの棚にありました。」

 人は時として、自分でも気づかないうちに心の棚に新しいものを置いている。


 それは長い間ホコリをかぶったまま忘れ去られていたりする。


 でも、ある日突然その存在に気づく瞬間がやってくる。


 今日は姉がそんな「新しい豆」を発見した日だった。


 ◆


 カウンターの木目が午後の陽光を柔らかく反射している。


 あかりは特別な棚から一袋の豆を取り出した。エチオピア産、シングルオリジン。


 豆の袋を開けると、フルーティーで複雑な香りが立ち上る。ベリーのような甘酸っぱさと、花のような華やかさ。そして奥底に潜む、深い苦味の予感。


「この豆、ずっと奥にしまってあったの。特別な時にだけ使おうと思って」


 あかりは豆を手に取り、一粒一粒を確認するように眺めた。艶やかな表面が光を弾く。


「でも、特別な時って案外突然やってくるものなのよね」


 彼女の指先が豆を優しく撫でる。まるで大切な宝物を扱うように。


 ◆


 渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第13話。


 姉は他人の恋バナには首を突っ込むが、自分の恋の棚はホコリをかぶったまま放置されている。そう思っていた。今日までは。


 午後3時の店内。僕はいつものようにカウンター席でPC作業をしていた。


 その時、見慣れた人影が店の入り口に現れた。


「出たな...」


 僕は思わず身構えた。あのイケメン常連客・橘さんだ。


 第5話で姉に「浅煎りが苦手」と言われて断られた彼が、またしてもあかりのいる時間帯に来店したのだ。


 改めて見ると橘さんは確かにイケメンだ。身長は180センチくらいで、スーツの着こなしも上品。でも今日はいつものビジネススーツではなく、カジュアルなジャケットを着ている。髪型も少しラフで、なんだか親しみやすい印象だ。


(懲りないなあ...でも、なんか前と雰囲気が違う?服装も変えてきてる)


 橘さんはカウンターに立つと、いつもの完璧な笑顔ではなく少し緊張した、でも真剣な表情で言った。


「こんにちは、黒木さん。今日は...あなたの淹れた"苦いコーヒー"を飲んでみたくて」


「え?」


 あかりは明らかに動揺した。


「この前の、浅煎りは苦手だっていう話、気になってたんです。僕、あなたの言う『本当の苦味』を理解したいんです」


 橘さんは少し照れたように頭を掻いた。


「実は...あの後、いろんなコーヒー店を回って『苦いコーヒー』を飲み比べてみたんです。でも、どれもただ苦いだけで、あなたが言っていた『深み』が分からなくて」


(え、マジで?そこまでしたの?)


 橘さんの言葉に、あかりの頬がほんのり赤くなった。


「それで気づいたんです。僕が求めていたのはコーヒーの味じゃなくて、あなたの価値観だったんだって」


(おお、これは...前回とは全然違うアプローチだ)


 自分の発言を覚えていて、しかもその"本質"を理解しようと実際に行動した姿勢。それは今まで彼女を口説いてきた男たちとは全く違うアプローチだった。


「...かしこまりました」


 あかりは少し照れながらも嬉しそうに答えた。


「とっておきの豆があるんです。少々お待ちください」


 ◆


 あかりはカウンターの奥の棚から、普段は使わない特別な豆を取り出した。


 さっき開けたばかりの、あの豆だ。


「エチオピア産のシングルオリジン。フルーティーだけど、奥に深い苦味がある豆です」


「シングルオリジン...」


「そう。一つの農園だけで作られた、混じりっ気のない豆。個性が強くて、好き嫌いが分かれるけど...」


 あかりは豆を手に取り、一粒一粒を確認するように眺めた。


「この豆、ずっと奥にしまってあったの。特別な時にだけ使おうと思って」


「特別な時...」


「でも、特別な時って案外突然やってくるものなのよね」


 あかりは橘さんのためだけに、一杯ずつ丁寧にハンドドリップでコーヒーを淹れ始めた。


 ミルで挽いた豆の香りが店内に広がる。ベリーのような甘い香りと、チョコレートのような深い香り。


 お湯を細く注ぐと、豆が膨らんで小さな山を作る。蒸らしの時間はいつもより長め。この豆の個性を最大限に引き出すために。


 二投目のお湯を「の」の字を描くように注いでいく。あかりの手つきはまるで芸術作品を作るように繊細だ。


 ドリッパーから一滴ずつ落ちるコーヒーが、サーバーに琥珀色の層を作っていく。


 その所作はいつになく真剣で、どこか楽しそうだった。


「黒木さん」


「はい?」


「その豆、いつから置いてあったんですか?」


「...半年くらい前に仕入れたんですが、なかなか使う機会がなくて」


「なぜ今日?」


 あかりは手を止めて少し考えた。


「...あなたになら、この豆の本当の味を分かってもらえるような気がしたから」


 出来上がったコーヒーを差し出し、あかりは少し緊張した様子で言った。


「どうぞ。苦いだけじゃないはずです」


 橘さんはそれを受け取り、まず香りを楽しんだ。


「いい香りですね。フルーティーで、でも複雑な...」


 そして一口飲んだ。


「...美味しい」


 橘さんは目を細めてゆっくりと味わった。


「すごく深くて優しい味がしますね。最初は苦いけど、後から甘みが追いかけてくる」


「そうなんです!」


 あかりの顔がパッと明るくなった。


「この豆の特徴を、ちゃんと分かってもらえて嬉しいです」


 二人の間に、明らかに"恋"の香りが漂い始めた。


(うわあ...これは完全にフラグ立ったな)


 僕はその様子を遠巻きに観察しながら、思わずニヤニヤしてしまった。


 ◆


「黒木さん」


「はい」


「今度の休みの日、もしよろしければ...一緒に美味しいコーヒー豆を探しに行きませんか?」


「え?」


「あなたのコーヒーへの情熱をもっと知りたいんです。そして僕も美味しいコーヒーの淹れ方を教えてもらいたくて」


 あかりは少し考えてから微笑んだ。


「...はい。喜んで」


「本当ですか?」


「ええ。橘さんになら、私の知ってる美味しいお店、紹介できます」


 橘さんの顔がパッと明るくなった。


「ありがとうございます!では、今度の日曜日はいかがですか?」


「日曜日...大丈夫です」


「それでは2時にここで待ち合わせということで」


 橘さんは少し迷うような表情を見せた。


「あの...もしよろしければ、連絡先を交換していただけませんか?待ち合わせの詳細とか、お店の場所とか...」


 あかりは一瞬戸惑ったが、実用的な理由に納得したようだった。


「そうですね。確かにお店の場所をお伝えした方がいいですね」


 二人はスマホを取り出し連絡先を交換した。橘さんの手が少し震えているのを僕は見逃さなかった。


「はい。楽しみにしています」


「僕も...とても楽しみです」


 橘さんは嬉しそうにコーヒーを飲み干し、何度も振り返りながら帰っていった。


 ◆


 彼が去った後、僕は姉に声をかけた。


「姉ちゃん、ついにデートの約束したね」


「デートじゃないわよ!コーヒー豆を探しに行くだけ」


「でも顔真っ赤だよ?」


「うるさいわね」


 あかりは照れながらカウンターを拭いている。


「でも橘さんっていい人そうだよね。前回とは全然違うアプローチだった」


「橘さんはちょうどいい温度なの」


「温度?」


「そう。熱すぎず、冷たすぎず。一緒にいて安心できる温度」


 あかりの表情がとても穏やかで幸せそうに見えた。


「前回は『浅煎りが苦手』って言ったけど、今回は?」


 あかりは少し考えてから答えた。


「今日の橘さんは深煎りだった」


「深煎り?」


「そう。最初は苦く感じるかもしれないけど、飲み続けると奥深い味わいがある。そして何より...」


 あかりは窓の外を見つめた。


「努力の跡が見えるの。あの人、本当にいろんなお店でコーヒーを飲んだのね。手のひらにコーヒーカップの跡がうっすら残ってた」


「え、そんなところまで見てたの?」


「バリスタの職業病よ。お客さんの手を見るとどんなコーヒーを普段飲んでるか分かるの」


 姉の観察眼の鋭さに僕は改めて驚いた。


 その時、店の外から橘さんが手を振っているのが見えた。コーヒー豆を探しに行く約束を忘れないようメモを取っているようだ。


 あかりも小さく手を振り返す。その笑顔は今まで見たことがないくらい自然で幸せそうだった。


「姉ちゃん、いい感じじゃん」


「まだ何も始まってないわよ」


「でも楽しそう」


「...うん、楽しいかも」


 あかりは素直に認めた。


 ◆


 僕はその様子を見ながらいつものネタ帳に書き留めた。


『恋愛における温度調節 - 浅煎りと深煎り、どちらを選ぶ?』

『姉の恋の棚から、ついに新しい豆が発見された日』


 姉ちゃんはついに自分にとって「ちょうどいい温度」の人を見つけたのかもしれない。


 第5話の橘さんの洗練された魅力も素敵だったけど、今日の橘さんの真摯で温かいアプローチの方が姉には合っているような気がする。


 日曜日のデート...じゃなくて、コーヒー豆探しが楽しみだ。


 きっと姉ちゃんは橘さんに最高のコーヒーの淹れ方を教えてあげるんだろうな。


 そして僕もこの恋の行方をそっと見守っていこうと思った。


 新しい豆はいつもの棚にあった。


 ただ、それに気づくタイミングを待っていただけだったのかもしれない。



(第13話完 次話へ続く)


 次回予告:

 その劣等感って、エスプレッソの苦味みたいです。


 #渋谷クロスカフェ #恋愛進展 #深煎りコーヒー #デートの約束 #新しい豆 #温度調節

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