第11話「その夢、まだ抽出の途中です。」

 夢を追いかけるのは簡単だ。


 でもその夢が現実の壁にぶつかった時、多くの人は諦めてしまう。


 僕もその一人になりかけていた。


 でも姉のコーヒー哲学はそんな僕に大切なことを教えてくれた。


 最高の味は最後まで抽出を続けた時にだけ現れるということを。


 ◆


 閉店間際のカウンター、柔らかな照明の下であかりはハンドドリップでコーヒーを淹れていた。


 最初のお湯で豆を蒸らし30秒待つ。そしてゆっくりと円を描くように二回目のお湯を注ぐ。


「コーヒーの抽出で一番味の成分が濃く出るのっていつだと思う?」


 あかりはドリッパーから最後の一滴が落ちるのをじっと見つめながら呟いた。


「蒸らし終わって最後にお湯を注ぎ切るその終盤よ」


 最後の一滴が落ちると深い香りが立ち上った。


「途中でやめたら一番美味しいところを捨てることになる」


 ◆


 渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第11話。


 姉のログを書き始めて数ヶ月。小さな芽が出たと思ったらその先には分厚いコンクリートが待ち構えていた。夢ってやつはどうしてこうも一筋縄ではいかないのだろう。


 僕のスマホが鳴ったのは午後の静かな時間帯だった。


「ハルくん?小さなWEBメディアの編集をしている田村です。あなたの記事面白いですね。一度お話しませんか?」


 心臓が跳ね上がった。ついに僕の記事を評価してくれる人が現れたのだ。


 翌日、僕は緊張しながら編集者の田村さんと会った。


「ハルくんの記事、確かに面白い。特に日常の中から哲学を見つけ出す視点がいいですね」


「ありがとうございます!」


 僕は舞い上がった。でも田村さんの次の言葉で現実に引き戻された。


「ただまだパンチが弱いかな。もう少し尖った視点が欲しい」


「尖った視点...」


「それとうちは成果報酬制なので、月5万稼げるかは君次第。正社員ではなく業務委託になります」


 僕の期待は一気に萎んだ。正社員だと思っていたのに業務委託。しかも低単価。


「記事単価は1本3000円から。月に20本書けば6万になりますが...まあ最初は厳しいかもしれませんね」


 夢への第一歩だと意気込んでいたのに、現実は想像以上に厳しかった。


 ◆


 その日の夜、僕はクロスカフェのカウンター席で深いため息をついていた。


「やっぱり俺には才能ないのかも...」


「ハル、何をそんなに落ち込んでるの?」


 姉のあかりが閉店準備をしながら声をかけてきた。


「姉ちゃん...編集者の人と会ったんだけど、思ってたのと全然違った」


 僕は田村さんとの面談の内容を話した。


「なるほどね。でどうするの?」


「どうするって...」


 あかりはハンドドリップでコーヒーを淹れ始めた。いつもより丁寧に時間をかけて。


「ハル、コーヒーの抽出で一番味の成分が濃く出るのっていつだと思う?」


「...最初?」


「いいえ、蒸らし終わって最後にお湯を注ぎ切るその終盤よ」


 あかりはドリッパーから最後の一滴が落ちるのを待ちながら続けた。


「途中でやめたら一番美味しいところを捨てることになる。あんたの夢もまだ抽出の途中なんじゃないの?」


「でも条件が厳しすぎるよ。月20本なんて...」


「最初から完璧な条件なんてないのよ。でもそこから始めて自分の味を見つけていくの」


 あかりは出来上がったコーヒーを僕の前に置いた。


「このコーヒーも最初は苦いかもしれない。でも最後まで飲んでみて。きっと深い味わいが分かるから」


 僕は一口飲んだ。確かに最初は苦かったが、飲み進めるうちに複雑で深い味わいが口の中に広がった。


「...美味しい」


「でしょ?途中で諦めたらこの味は分からなかった」


 あかりの言葉が僕の心に響いた。


「姉ちゃん、俺...」


「決めるのはあんたよ。でも私は知ってる。あんたの書く文章にはちゃんと味がある」


 ◆


 僕は深呼吸した。そしてスマホを取り出して田村さんにメールを書いた。


『田村さん、やらせてください。ただし3ヶ月で結果が出なければ俺の方から辞めます。その代わり全力でやります』


 送信ボタンを押した瞬間、不安と期待が入り混じった気持ちになった。


「送った?」


「うん。3ヶ月で勝負する」


「いいじゃない。短期集中で濃い味を抽出するのね」


 あかりは満足そうに微笑んだ。


 翌日、田村さんから返事が来た。


『その意気込み気に入りました。まずは1本試しに書いてみてください。テーマは自由です』


 僕はいつものネタ帳を開いた。そこには姉から学んだたくさんの哲学が書かれている。


『夢の抽出は終盤にこそ味が濃くなる』


 これが僕の最初の記事のタイトルになった。


「よしやってやる。俺だけのブレンド見つけてやる」


 カウンターの向こうであかりがにっこりと笑っているのが見えた。


 夢を追いかけるのは簡単じゃない。でも最後まで抽出を続ければきっと最高の味に出会えるはずだ。


 僕の本当の挑戦は今、始まったばかりだった。


(第11話完 次話へ続く)


 次回予告:

 気まずい沈黙って、ラテアートの練習時間なんです。


 #渋谷クロスカフェ #夢への挑戦 #抽出の哲学 #姉弟の絆 #現実と理想 #最後まで諦めない

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る