第9話「思い出の味は、インスタントでも悪くない。」
人生には、完璧じゃないけれどなぜか心に残る味がある。
それは高級なコーヒー豆で淹れた一杯ではなく、誰かと分かち合ったたった一杯のインスタントコーヒーかもしれない。
今日は姉の過去とそんな「思い出の味」について考えさせられる一日だった。
◆
マシンの銀色が輝くカウンターで、あかりはポルトフィルターに細挽きのエスプレッソを詰め込んだ。
レバーを引くと熱い湯気がふわりと舞い上がり、25秒の抽出が始まる。
豆の圧力で絞り出される黄金の液体は細い糸のようにカップに落ち、クリーマの泡が優しく冠を成す。
「完璧なエスプレッソは技術と経験の結晶」
あかりは独り言のように呟きながらカップを軽く回して香りを確認する。
「でも完璧じゃないコーヒーにもそれなりの良さがあるのよね」
◆
渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第9話。
姉のコーヒー哲学はいつだって完璧だ。でもそんな姉にも唯一、ドリップに失敗したコーヒーがあるらしい。僕は今日、その"淹れそこなった一杯"と対面することになる。
午後の忙しい時間帯、僕はいつものようにカウンター席でPC作業をしていた。姉のあかりは手際よく次々とオーダーをこなしている。
その時だった。
「あれ...あかりちゃん?」
穏やかな声に振り返ると、そこには人の良さそうな笑顔を浮かべた男が立っていた。隣には可愛らしい女性がいる。
姉の顔がほんのわずかに強張ったのを僕は見逃さなかった。
「雄大さん...ご無沙汰してます」
雄大。姉がかつて「完璧すぎて息が詰まる」と言っていた元カレだった。
「わ、すごい偶然!ここで働いてたんだね。彼女の真奈美。...ああ、注文ええと...」
雄大さんは少し気まずそうにメニューを見る。その時、姉は完璧な笑顔で言った。
「...いつもの『インスタント』でよろしいですか?」
「インスタント?」
雄大さんと彼女さんがキョトンとする。姉はしまったという顔をしたがもう遅い。
(やばい、姉ちゃん動揺してる...)
姉と雄大さんの間にはお湯を注ぐだけで完成してしまう、手軽でも深みのないそんな関係があったのかもしれない。
空気が凍りつく中、僕は咄嗟にカウンターから身を乗り出した。
「すみません、姉のジョークです!うちインスタント置いてないんで!」
そして震える姉の手からそっとメニューを受け取り、雄大さんたちに向き直る。
「お客様、よろしければ僕がオーダーお伺いします。最近入った豆ですごくバランスの取れた飲みやすいのがあるんですよ。お二人にぴったりだと思います」
僕が必死に笑顔で接客する間、姉は黙って下を向いていた。
「ありがとう、君。じゃあそれで」
雄大さんは優しく微笑んで僕の提案を受け入れてくれた。
僕は心を込めて二人分のコーヒーを淹れた。姉から教わった技術を総動員して最高の一杯を作る。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
雄大さんたちが席に着いた後、バックヤードで姉が僕に小さな声で言った。
「...ありがと」
「別に。姉ちゃんが淹れたコーヒー、味が落ちると店の評判に関わるから」
「...あんた、いつの間にあんな接客できるようになったのよ」
「毎日誰かさんのコーヒー哲学を聞かされてるからね。自然と覚えるよ」
僕がそう言うと姉は少しだけ笑った。それはいつものドヤ顔ではなく、少しだけ安心したような優しい笑顔だった。
◆
「姉ちゃん、雄大さんとは...」
「昔の話よ。もう終わったこと」
でも姉の表情は複雑だった。
雄大さんたちが席でコーヒーを飲んでいる様子が見える。
「...美味しいね、このコーヒー」
「うん、すごくホッとする味」
二人の穏やかな会話が聞こえてくる。
「姉ちゃん、雄大さんってどんな人だったの?」
姉は少し考えてから答えた。
「完璧な人だった。優しくて気が利いていつも私のことを考えてくれて」
「それって良いことじゃん」
「そうね。でも...」
姉は窓の外を見つめながら続けた。
「完璧すぎて私が本当に欲しいものが分からなくなったの。彼が用意してくれるものはいつも私の好みに合わせて完璧だった。でもそれが本当に私の好みなのか、彼が思う私の好みなのか分からなくなって」
「それでインスタント?」
「そう。私たちの関係はお湯を注ぐだけで完成するインスタントコーヒーみたいだった。手軽で失敗もないけど深みがない」
姉の言葉に僕は何となく理解した。
「でもインスタントコーヒーも悪くないよ。手軽だし忙しい時には助かる」
「そうね。思い出の味はインスタントでも悪くない。ただ毎日それだけじゃ物足りなくなるのよ」
◆
その時、雄大さんたちがカウンターにやってきた。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
雄大さんは僕に向かって言った。そしてあかりの方を見て少し照れたように続けた。
「あかりちゃん、元気そうで良かった。君にはいつも美味しいコーヒーを淹れてもらってたからね」
「こちらこそ。お幸せそうで何よりです」
あかりは今度は自然な笑顔で答えた。
「それじゃあまた」
雄大さんたちが帰った後、店内には静かな空気が流れた。
「姉ちゃん、大丈夫?」
「うん。なんかスッキリした」
あかりは一杯のコーヒーを僕の前に置いた。
「...今日のコーヒーは私が淹れた中で一番美味しいかも」
それは少しだけ不格好なラテアートが浮かんだ優しい味のラテだった。
「どうして?」
「誰かのために淹れたコーヒーは特別美味しいのよ。今日あんたが雄大さんたちに淹れたコーヒーもきっとそうだった」
僕はそのラテを一口飲んだ。確かにいつもより温かくて優しい味がした。
「姉ちゃんの"淹れそこなった一杯"は確かに苦かったかもしれないけど、その経験があったから今の姉の優しい一杯があるんだね」
「そうかもしれないわね」
あかりは窓の外を見ながら微笑んだ。
「過去のコーヒーがインスタントでも今淹れるコーヒーが美味しければそれでいいのよ」
◆
僕はPCを開き今日のログを打ち込む。
『最高のコーヒーは誰かのために淹れる一杯だ』
『思い出の味はインスタントでも悪くない。でも今の一杯はもっと美味しい』
姉ちゃんは過去の失敗も含めて今の自分を作っている。そして僕も失敗を恐れずに自分の言葉をドリップしなきゃな。
雄大さんとの再会は姉にとって一つの区切りだったのかもしれない。
そして僕にとっても姉から学んだことを実践できた大切な一日だった。
(第9話完 次話へ続く)
次回予告:
その会議、アフォガートでほっこりしませんか。
#渋谷クロスカフェ #過去との決別 #インスタントコーヒー #姉弟の絆 #成長 #思い出の味
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます