第8話「その正論、ドリップの速度が速すぎます。」

 正しいことを言うのは簡単だ。


 でもその正しさが相手を傷つけることもある。


 まるで熱湯を一気に注いでコーヒーの味を台無しにしてしまうように。


 今日はそんな「正論の暴力」について考えさせられる一日だった。


 ◆


 カウンターの木目が午後の陽光を柔らかく反射する中、あかりはドリッパーをそっとセットした。


 フィルターに注がれた透明なお湯がコロンビア産の豆に触れる瞬間—それは雨粒が葉に落ちるような静かな息吹だった。


 蒸らしの30秒、豆がゆっくり膨らみ豊かなアロマが店内に広がる。


「美味しいコーヒーはゆっくり丁寧に淹れないとダメ」


 あかりは独り言のように呟きながら円を描くようにお湯を注いでいく。


「焦って一気にお湯を注ぐと、豆の味が出る前に通り過ぎちゃう」


 ◆


 渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第8話。


 今日の僕は新人・乾さんの接客を観察していた。彼女は真面目でマニュアルを完璧に覚えているのだが、時々その「正しさ」が少しキツく感じることがある。


「お客様、そちらのカスタマイズは追加料金が発生いたします。事前にお伝えすべきでした」


 乾さんが注文を間違えた女性客に対して、丁寧だが少し冷たい口調で説明している。女性客は「あ、はい...」と萎縮してしまった。


(正しいことを言ってるんだけど、なんかちょっと...)


 その時、店内の一角から男性の早口な声が聞こえてきた。


「だから君はもっと生産性を意識すべきなんだ。その考え方は非効率的だよ」


 振り返ると意識高い系の大学生カップルが座っていた。彼氏の方が彼女に向かってビジネス書の内容を早口でまくし立てている。


「時間管理ができてないから君の成績も上がらないんだ。僕が教えてあげるからこのアプリを使って...」


 彼女は完全に引いていた。顔は笑っているが目は泳いでいる。


「うわ...昔の俺を見てるみたいでキツい...」


 僕は思わず呟いた。確かに僕もライターになりたての頃は、知識をひけらかして相手を困らせることがあった。


「ハル、何か言った?」


 姉のあかりが先ほどのハンドドリップを完成させながら声をかけてきた。


「姉ちゃん、あのカップル見てよ。彼氏正論ばっかり言ってるけど、彼女完全に引いてるじゃん」


 あかりはそのカップルの方をちらりと見て苦笑いした。


「あらあの彼氏さん、お湯の注ぎ方が下手ね」


「お湯の注ぎ方?」


「そう。美味しいコーヒーはゆっくり丁寧に淹れないとダメ。焦って一気にお湯を注ぐと、豆の味が出る前に通り過ぎちゃう」


 あかりはわざと失敗例を見せるように別のドリッパーに勢いよくお湯を注いだ。すると薄くて味気ないコーヒーができあがった。


「ほらこんな風に。あの彼氏の言葉も同じね。正しいことを言ってるのかもしれないけど、相手が受け取れる速度を考えてない」


 なるほどと僕は納得した。


 ◆


 その時、僕たちの会話を聞いていた乾さんが少し不満そうな顔で口を挟んだ。


「ですが黒木さん。彼の言っていることは論理的で正しいです。非効率を改善するのは当然では?」


 あかりは乾さんの方を向いて静かに答えた。


「乾さん。正しさも相手が受け取れる温度と速度で淹れてあげないと、ただの"熱いだけのお湯"よ」


「でも正しいことは正しいことです」


「そうね。でも正しいことを言うタイミングと方法を間違えると、相手の心を火傷させちゃうの」


 その時、カップルの彼女が泣き出しそうになった。彼氏はまだ気づかずに「君のためを思って言ってるんだ」と続けている。


 見かねたあかりが二人のテーブルにデカフェのコーヒーを運んでいった。


「お疲れ様です。少し休憩しませんか?」


 あかりは彼氏の前にカップを置きながら優しく言った。


「頭を使いすぎるとカフェインの摂りすぎは良くないですから。こちらはデカフェです」


 その一言で彼氏はハッと我に返った。


「あ...ごめん、俺熱くなりすぎてた...」


 彼は彼女の方を見て初めて彼女の表情に気づいた。


「ごめん、君の気持ちも聞かずに一方的に話してた」


「ううん、私も...でももう少しゆっくり話してくれると嬉しいな」


 二人の間にようやく穏やかな空気が流れた。


 ◆


 戻ってきたあかりを見て乾さんが尋ねた。


「黒木さん、なぜデカフェを?」


「興奮してる時はカフェインを控えた方がいいの。人間関係も同じ。熱くなりすぎた時は一度クールダウンが必要よ」


 乾さんは何かを考えるような表情をしていた。


「私も...さっきのお客様にもう少し優しく説明すべきでした」


「乾さんは真面目でそれは素晴らしいことよ。でも時には相手の気持ちを蒸らす時間も必要なの」


「蒸らす時間...」


「そう。コーヒーと同じ。急がず相手のペースに合わせてゆっくりと」


 その日の夜、僕は今日の出来事をネタ帳に書き留めた。


『正論はデカフェと一緒に出すべし』

『相手の心を火傷させない、優しい正しさの伝え方』


 姉ちゃんは正しいことを正しく伝える方法を知っている。それは相手を思いやる温度と適切な速度なのかもしれない。


 僕もこれからは自分の言葉の「ドリップ速度」に気をつけよう。


 相手が美味しく受け取れるようにゆっくりと丁寧に。


(第8話完 次話へ続く)


 次回予告:

 思い出の味って、インスタントでも案外いいものです。


 #渋谷クロスカフェ #正論 #ドリップ速度 #優しさ #人間関係 #温度調節

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