第6話「その優しさは、ミルクの温度で決まります。」

 恋愛において、「ちょうどいい距離感」を保つのは難しい。


 近すぎれば重いと思われ、遠すぎれば冷たいと思われる。


 まるでミルクの温度調節のように、相手にとって心地よい「温度」を見つけるのはバリスタの技術と同じくらい繊細な作業なのかもしれない。


 昨日、完璧すぎる橘さんを「浅煎り」と評した姉だったが、今日はその真意がもう少し見えてくる一日となった。


 ◆


 シュワシュワというミルクスチームの歌が午後のカウンターを優しく包む。


 あかりはステンレスのピッチャーに冷たいミルクを注ぎ、スチームワンドをそっと沈めた。温度計を確認しながら65度になるまでゆっくりと温める。


「ミルクはね、温度が全てなの」


 独り言のように呟きながら、あかりは抽出済みのエスプレッソショットの上に渦を巻くように注いでいく。白いミルクがコーヒーの茶色と混ざり合い、優しいハート型のラテアートが生まれる。


「熱すぎても冷たすぎても、美味しくならない」


 ◆


 渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第6話。


 今日の僕は昨日の橘さんの件が気になって、いつもより早めにクロスカフェに来ていた。姉の「浅煎りが苦手」発言の真意をもう少し探ってみたかったのだ。


「ハル、あんた今日は早いのね」


 姉のあかりがいつものように手際よくラテを作りながら声をかけてくる。


「姉ちゃん、昨日の橘さんの件だけど...」


「もうその話はいいの」


 あかりは少しそっけなく答えたが、耳がほんのり赤いのを僕は見逃さなかった。


 その時、店の入り口から見慣れない男性が入ってきた。作業着を着た職人風の男性だ。年齢は30代前半くらいだろうか。


 彼はカウンターの前で少し戸惑っているようだった。明らかにクロスカフェ初心者の雰囲気だ。


「あの...コーヒー、お願いします」


「はい、ホットコーヒーですね。ドリップコーヒーでよろしいですか?」


 あかりはいつものように丁寧に対応する。


「はい...あの、すみません。実はこの近くで工事をしてまして。いつもは缶コーヒーなんですが、今日は少し奮発してみようかと」


 男性は少し照れながら説明した。作業着についた名札を見ると「田中」と書いてある。


「そうなんですね。お疲れ様です。ではしっかりとした味のコーヒーをお淹れしますね」


 あかりはいつもより少し濃いめにドリップコーヒーを淹れ始めた。そしてカップに「田中さん」と丁寧に書く。


「田中さん、お待たせしました。お仕事頑張ってください」


「ありがとうございます...あの」


 田中さんはコーヒーを受け取りながら、少し躊躇するように言った。


「もしよろしければ、お名前を教えていただけませんか?とても丁寧にしていただいて...」


 あかりは少し驚いたような顔をした後、微笑んだ。


「あかりです。黒木あかり」


「あかりさん...いいお名前ですね。僕は田中雄介です。また来させていただきます」


 田中さんは深々と頭を下げて席に向かった。


 僕は姉の様子を観察していたが、彼女の頬が少しだけ赤くなっているのに気づいた。


「姉ちゃん、今の人...」


「何よ」


「なんか昨日の橘さんとは全然違うタイプだね」


 あかりは手を止めて田中さんの方をちらりと見た。


「あの人は深煎りね」


「深煎り?」


「そう。最初は苦く感じるかもしれないけど、飲み続けると奥深い味わいがある。素朴だけど本物の美味しさがあるの」


 僕は思わずニヤリとした。昨日は「浅煎りが苦手」と言っていた姉が、今度は「深煎り」について語っている。


 ◆


 その後、田中さんは毎日のようにクロスカフェに現れるようになった。いつも同じ時間、同じ席であかりの淹れるコーヒーを飲んでいる。


「姉ちゃん、田中さんまた来てるよ」


「見えてるわよ」


 あかりは少し照れながらいつものようにドリップコーヒーを淹れ始める。でも今日はいつもより丁寧にお湯を注いでいるのが分かった。


「あかりさん、いつもありがとうございます」


 田中さんがカウンターにやってくるとあかりの頬がほんのり赤くなる。


「いえいえ、お疲れ様です。今日も暑いですね」


「そうですね。でもあかりさんのコーヒーを飲むと疲れが吹き飛びます」


 うわあ、ストレートな褒め言葉だ。橘さんの洗練されたセリフとは正反対の、素朴で真っ直ぐな言葉。


「ありがとうございます...あの、田中さん」


「はい?」


「もしよろしければ、今度の休みの日に...」


 あかりが何かを言いかけた時、突然店内に大きな音が響いた。田中さんが工事現場に戻るために立ち上がった際、椅子を倒してしまったのだ。


「あ、すみません!」


 田中さんは慌てて椅子を直そうとするが、作業着のポケットから工具がバラバラと落ちてしまう。


「大丈夫ですよ、気にしないでください」


 あかりは笑顔で言いながら一緒に工具を拾い始めた。その時、二人の手が偶然触れ合った。


「あ...」


「あ...」


 二人とも真っ赤になって慌てて手を引っ込める。


 僕は思わずクスッと笑ってしまった。なんて初々しいんだろう。


「あの、田中さん。さっき言いかけたことなんですが...」


「はい」


「今度の日曜日、もしお時間があれば、美味しいコーヒー豆を買いに行きませんか?田中さんにも家で美味しいコーヒーを飲んでもらいたくて」


 田中さんの顔がパッと明るくなった。


「本当ですか?ぜひお願いします!」


「では日曜日の2時にここで待ち合わせということで」


「はい!楽しみにしています!」


 田中さんは嬉しそうに工事現場に戻っていった。


 ◆


「姉ちゃん、ついにデートの約束したね」


 僕はニヤニヤしながら言った。


「デートじゃないわよ!コーヒー豆を買いに行くだけ」


「でも顔真っ赤だよ?」


「うるさいわね」


 あかりは照れながらカウンターを拭いている。


「でも田中さんっていい人そうだよね。橘さんとは全然違うタイプだけど」


「田中さんはちょうどいい温度なの」


「温度?」


「そう。熱すぎず冷たすぎず。一緒にいて安心できる温度。まるで毎日飲んでも飽きないコーヒーみたい」


 姉の表情がとても穏やかで幸せそうに見えた。


「昨日の橘さんは浅煎りで、田中さんは深煎り。姉ちゃん、結局どっちが好みなの?」


 あかりは少し考えてから答えた。


「深煎りかな。最初は苦く感じるかもしれないけど、飲み続けると奥深い味わいがある。そして何より...温かいの」


 その時、店の外から田中さんが手を振っているのが見えた。工事現場に戻る前にわざわざお礼を言いに来たようだ。


 あかりも小さく手を振り返す。その笑顔は今まで見たことがないくらい自然で幸せそうだった。


「姉ちゃん、いい感じじゃん」


「まだ何も始まってないわよ」


「でも楽しそう」


「...うん、楽しいかも」


 あかりは素直に認めた。


 ◆


 僕はその様子を見ながらいつものネタ帳に書き留めた。


『恋愛における温度調節 - 浅煎りと深煎り、どちらを選ぶ?』

『姉の初々しいデート約束 - コーヒー豆ショッピング編』


 姉ちゃんはついに自分にとって「ちょうどいい温度」の人を見つけたのかもしれない。


 橘さんの洗練された魅力も素敵だったけど、田中さんの素朴で真っ直ぐな優しさの方が姉には合っているような気がする。


 日曜日のデート...じゃなくて、コーヒー豆ショッピングが楽しみだ。


 きっと姉ちゃんは田中さんに最高のコーヒーの淹れ方を教えてあげるんだろうな。


 そして僕もこの恋の行方をそっと見守っていこうと思った。


(第6話完 次話へ続く)


 次回予告:

 その呪文、フラペチーノでふわっと浄化しませんか。


 #渋谷クロスカフェ #優しさ #温度調節 #思いやり #ホッコリ #心温まる

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