第5話「甘すぎるオーダーは、エスプレッソで目を覚まさせて。」
恋愛において、甘い言葉や完璧な振る舞いは確かに魅力的だ。
でも時にはその甘さが、本当の気持ちを見えなくしてしまうこともある。
砂糖やシロップでコーティングされた関係の奥に隠れた、本当の味を知りたいと思うのは贅沢な願いなのだろうか?
そんな複雑な恋愛観を持つ姉の、珍しいプライベートな一面を垣間見ることになった日の話。
◆
午後3時の渋谷クロスカフェ。
平日の昼下がり、店内は比較的静かで落ち着いた雰囲気。
常連客の姿もちらほら見える中、今日は特別な来客がある。
そして今日は、いつも他人の恋愛にアドバイスをする姉が自分自身の恋愛と向き合うことになる。
◆
渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第5話。
姉は他人の恋愛には鋭いが、自分のことになるとそのドリップは途端に味を見失う。僕は今日、その貴重な瞬間を目撃することになる。
いつものようにカウンターでPC作業をしていると、店の入り口から爽やかな風が吹いた気がした。長身で仕立ての良いスーツを着こなした男性。イケメン常連客の橘さんだ。彼はいつもあかりのいる時間帯に現れる。
「こんにちは、黒木さん。今日もいい香りですね、お店もあなたも」
橘さんは嫌味なくそんなセリフを口にしながらカウンターの前に立った。
(うわ、完璧すぎるセリフ...でも確かにイケメンだし、姉ちゃんも満更じゃなさそう)
「橘さん、どうも。今日のおすすめはケニアですが」
姉はいつものポーカーフェイスで応じる。だが耳がほんのり赤いことを、弟の僕は見逃さない。
「うーん...じゃあ今日はあなたのおすすめを。...それともしよければ、今度の週末、僕と美味しいコーヒーを飲みに行きませんか?もちろんこの店以外で」
キタ。あまりにもスマートで完璧な誘い文句。僕は固唾を飲んで姉の返事を待った。周囲の女性客たちも聞き耳を立てているのがわかる。
(これは断る理由ないでしょ...橘さん、めちゃくちゃ優良物件だし)
姉は少しだけ目を伏せ、カップを磨く手を止めた。そして顔を上げて静かに言った。
「ごめんなさい、橘さん。私、浅煎りのコーヒーはちょっと苦手なんです」
「え?」
橘さんは一瞬キョトンとした後、大人の余裕で「そっか、残念。また誘いますね」と笑顔で去っていった。
◆
嵐が去った後、僕はすかさず姉に詰め寄った。
「姉ちゃん!なんで断るんだよ!橘さん、めちゃくちゃ優良物件じゃん!」
「うるさいわね」
「ていうか浅煎りが苦手って何!?意味わかんないし!姉ちゃん、普通にアメリカンとか飲んでるじゃん!」
姉は大きなため息をつくとエスプレッソマシンを操作しながらボソリと言った。
「...ハル、甘すぎるキャラメルマキアートを頼むお客さんにはね、時々エスプレッソショットを追加してあげるの」
「は?」
「甘いだけの関係はいつか飽きるのよ。時には苦いエスプレッソみたいな本音とかぶつかり合いがないと、味に深みが出ない。あの人の誘い方、完璧すぎて...甘すぎるのよ。全部シロップでコーティングされてるみたいで」
その言葉に僕はハッとした。姉はただ格好つけて断ったわけじゃない。彼女なりに相手の本質を見抜こうとしていたのだ。
「昔ね、付き合ってた人がいたの」
珍しく姉が自分の過去を語り始めた。
「その人、いつだって完璧だった。私の好きなものを全部調べて、記念日もサプライズも完璧。でもね...一度も喧嘩したことがなかった。私が本当に言いたいことを飲み込んでも、彼は気づかなかった。...ううん、気づかないフリをしてたのかも」
姉の横顔が少しだけ寂しそうに見えた。
「その関係は結局ホイップクリームみたいに、いつの間にか消えてなくなってたわ。だからもう甘いだけのコーヒーは飲みたくないの」
(姉ちゃん、そんな過去があったのか...だから他人の恋愛には詳しいのに自分のことになると...)
◆
その時、一人の女性客が「あの...今の話すごくわかります」と声をかけてきた。見ると彼女の目には涙が浮かんでいた。
「私も彼にいつも『いい子だね』って言われるのが、逆に辛くて...本当の私を見てくれてるのかなって」
それをきっかけに、カウンターの周りにいた数人の女性客が次々と声を上げ始めた。
「わかる...!完璧すぎる彼氏って逆にプレッシャーですよね」
「本音でぶつかりたい時ってありますよね!」
「甘い言葉より時には厳しい意見も欲しい」
なぜか女子会のような一体感が生まれていた。
「でも本音を言うのって勇気いりますよね...」
一人がそう呟くと姉が静かに答えた。
「本当に美味しいコーヒーは最初は苦く感じるかもしれない。でもその苦味の奥に本当の甘さが隠れてるの。人間関係も同じよ。表面的な甘さじゃなくて、深いところにある本当の優しさを見つけられたら...それが一番美味しいコーヒーになるのかもしれないわね」
女性たちは深く頷いていた。
◆
その日の夜。僕は姉の淹れてくれた少し苦めのコーヒーを飲みながら言った。
「姉ちゃん、意外と不器用だよな」
「ほっといて」
ぶっきらぼうに返す姉の横顔はでもどこかスッキリしているように見えた。
「でも姉ちゃんの言う『本当の味』っていつか見つかるのかな?」
「さあね。でも見つからなくても別にいいのよ。一人でも美味しいコーヒーは飲めるもの」
そう言いながら姉は自分のカップを大切そうに両手で包んだ。
僕はPCを開き今日の出来事をネタ帳に打ち込む。
『甘すぎる恋にはエスプレッソショットを。〜姉の恋愛哲学と苦味の価値〜』
『完璧すぎる男性を断る理由 - 浅煎りコーヒー理論』
姉ちゃんは誰よりも"本物の味"を求めているのかもしれない。それはコーヒーも人間関係もきっと同じなのだろう。
このログはきっと誰かの心に、深く苦く、でも温かく染み渡るはずだ。
そして僕もいつか姉ちゃんが本当に美味しいと思えるコーヒー...いや、人に出会えることを願っている。
(第5話完 次話へ続く)
次回予告:
その優しさって、ミルクの温度で決まるんですね。
#渋谷クロスカフェ #恋愛哲学 #エスプレッソ #本音 #甘すぎる関係 #本当の味
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