第1話「『なんかいい感じに』は、まだ豆のままです。」

 午後3時の渋谷クロスカフェ。


 姉のあかりは、いつものように丁寧にドリップコーヒーを淹れていた。


 お湯の温度、注ぐスピード、蒸らしの時間。すべてが計算され尽くした動作だった。


「今日も『なんかいい感じに』のお客様がいらっしゃるのかしら」


 あかりが独り言のように呟く。


 ◆


 渋谷クロスカフェ発、姉弟のゆるっとログ。第1話。


「あの、すみません」


 カウンター席に座った20代前半の男性が、恐る恐る声をかけてきた。


「はい、いらっしゃいませ」


 あかりがいつもの笑顔で応える。


「えーっと...コーヒーを...」


 男性が言いかけて止まった。


「はい、どのようなコーヒーをお望みですか?」


「その...なんかいい感じのやつを...」


 僕は心の中でツッコんだ。


(なんかいい感じって、何だよ)


 でも、あかりは慣れた様子で微笑んだ。


「なんかいい感じですね。承知いたしました」


 え?


 男性も僕も、同時に困惑した。


「あの...どんなコーヒーになるんですか?」


 男性が不安そうに尋ねる。


「それは、お客様次第です」


 あかりが謎めいた答えを返した。


「僕次第?」


「はい。『なんかいい感じ』というのは、まだ豆のままの状態なんです」


 あかりがコーヒー豆を手に取りながら説明を始めた。


「コーヒー豆って、挽いて、お湯を注いで、初めてコーヒーになりますよね?」


「はい...」


「『なんかいい感じ』も同じです。お客様の今の気分や状況を教えていただいて、初めて『いい感じのコーヒー』になるんです」


 なるほど。


 僕はネタ帳にメモを取り始めた。


「それでは、今日はどんな一日でしたか?」


 あかりが優しく尋ねた。


「実は...今日、就職の面接だったんです」


 男性が少し緊張した様子で答えた。


「そうでしたか。いかがでしたか?」


「正直、うまくいったかどうか分からなくて...」


 男性の表情が曇った。


「緊張して、言いたいことの半分も言えませんでした」


 あかりがうなずいた。


「そうですね。それでは、今のお気持ちはいかがですか?」


「不安です。でも、やるだけのことはやったという気持ちもあって...」


「複雑な気持ちですね」


 あかりが共感を示した。


「それでしたら、今日の『なんかいい感じ』は、こちらにいたしましょう」


 あかりが手に取ったのは、中煎りのブラジル豆だった。


「ブラジル豆は、バランスが良くて安定感があります」


 お湯を注ぎながら、あかりが説明を続けた。


「不安な気持ちを落ち着かせて、でも希望も感じられるような、そんなコーヒーです」


「へぇ...」


 男性が興味深そうに見ている。


「そして、少しだけ砂糖を加えます」


「砂糖?」


「はい。『やるだけのことはやった』という、ほんの少しの甘い気持ちです」


 完成したコーヒーを男性に差し出した。


「お客様の『なんかいい感じ』、完成です」


 男性が一口飲んで、表情が明るくなった。


「美味しい...そして、なんだか落ち着きます」


「良かったです」


 あかりが嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。なんだか、結果がどうであれ、頑張った自分を認めてあげたくなりました」


 男性が席を立つ時、深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございました」


 ◆


 男性が去った後、僕はあかりに尋ねた。


「姉ちゃん、今のすごかったね」


「そう?」


「『なんかいい感じ』を、ちゃんと形にしてた」


 あかりが少し照れながら答えた。


「コーヒーって、ただの飲み物じゃないのよ」


「どういうこと?」


「その人の気持ちや状況に寄り添って、初めて『いい感じ』になるの」


 僕はネタ帳に書き留めた。


『コーヒーは、人の気持ちに寄り添って初めて完成する』


「でも、どうして分かるの?その人に合うコーヒーが」


「んー、難しいけど...」


 あかりが考え込んだ。


「その人の表情とか、話し方とか、全部ひっくるめて感じ取るのかな」


「感じ取る?」


「そう。『この人は今、こんな気持ちなんだろうな』って」


 なるほど。


 姉は、コーヒーを通して人の心を読んでいるのか。


「それって、すごい才能だよね」


「才能なんて大げさよ。ただ、人に興味があるだけ」


 あかりがカウンターを拭きながら続けた。


「みんな、それぞれ違う人生を歩んでて、それぞれ違う悩みを抱えてる」


「うん」


「その人にとって『なんかいい感じ』って何なのか、一緒に考えるのが楽しいの」


 僕は改めて姉を見直した。


 確かに、姉はいつも人の話をよく聞く。


 そして、その人が本当に求めているものを見つけ出すのが上手だった。


「ハル、あんたも『なんかいい感じ』のコーヒー、飲む?」


「え?僕?」


「そう。今日はどんな気分?」


 僕は少し考えた。


「うーん...なんか、姉ちゃんのこと、改めてすごいなって思った」


「あら、珍しく素直ね」


「でも、同時に、僕も何か人の役に立てることがあるのかなって」


 あかりが微笑んだ。


「それじゃあ、今日のハルの『なんかいい感じ』は...」


 あかりが手に取ったのは、深煎りのコロンビア豆だった。


「コロンビア豆は、しっかりとした味わいがあるけど、後味がすっきりしてるの」


「ほう」


「『自分も頑張ろう』という気持ちと、『でも焦らずに』という気持ち、両方を表現してみました」


 完成したコーヒーを飲んでみると、確かに力強いけれど、嫌な苦味はない。


「美味しい」


「良かった」


 ◆


 僕はネタ帳に今日の出来事を書き留めた。


『姉ちゃんは、コーヒーを通して人の心に寄り添っている。僕も、何かで人の役に立ちたい』


「ハル、そのネタ帳、何書いてるの?」


「姉ちゃんの観察日記」


「え?」


「姉ちゃんがお客さんとどんな風に接してるか、記録してるんだ」


 あかりが少し恥ずかしそうにした。


「やめてよ、恥ずかしい」


「でも、すごく勉強になるよ。人との接し方とか」


「そう?」


「うん。姉ちゃんから学んだことを、僕も活かしたいんだ」


 あかりが嬉しそうに微笑んだ。


「それなら、毎日観察してもいいわよ」


「本当?」


「ただし、お客さんの邪魔にならないようにね」


「もちろん」


 こうして、僕の「姉ちゃん観察日記」が始まった。


 渋谷クロスカフェで繰り広げられる、小さな人間ドラマを記録していこう。


 そして、いつか僕も、誰かの「なんかいい感じ」を見つけられるようになりたい。


(第1話完 次話へ続く)


 次回予告:

 その既読スルー、もう少しふんわり蒸らしませんか。


 #渋谷クロスカフェ #コーヒー哲学 #姉弟 #人間観察 #なんかいい感じ

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