第19話 我が上の星は見えぬ
「待ってよ夏生!」
その声が響いたのは、場の空気に圧倒されたように固まっていた夏生の手を引き、雪奈がその場をあとにしようとしたときだった。
悲痛な色を伴う冴の声が届いた瞬間、雪奈に引っ張られるがままに歩きだしていた夏生の足が止まってしまう。
雪奈からすれば、あんな自分の欲望のために他人に害をなす人間の声など、聞く必要もないと思うのだが、夏生はそう思ってはいないらしい。
目の前で繰り広げられた雪奈と冴の舌戦を目の当たりにして、呆けたように呆然としていたというのに、冴に呼びかけられた夏生は、はじけたように動いて、冴の方を振り向いていた。
「お願い、待ってよ夏生」
「冴、泣いてるの?」
仕方なく雪奈も振り向けば、冴は本当に泣いていた。
ずっと強気な姿勢を崩さず、夏生の主にでもなったように過ごしていたくせに、今はその双眸から、ボロボロと大粒の涙をこぼしている。
メイクも崩れ、雪奈や夏生に見られているというのに、それでも顔を隠そうともしない。もはや冴には、外見を気にするような余裕もないのだろう。
恥も外聞もないその姿に、夏生は心底驚いているようだった。
無理もないと雪奈は思う。夏生にとって雪奈は、常に自分を支配していた相手だったのだから。
束縛され、暴力をふるわれ、都合よく従わせられていた相手だ。立場としては、泣かされるのが夏生の方であり、冴はいつもそんな夏生を、余裕ぶって上から見ていたはずだ。
だが今は逆に、冴が夏生へと泣きついている。
今までとはまったく反対の状況。そして、これまでは絶対になかったはずの状況でもある。
そんな事態に陥った夏生が、驚きのあまり固まってしまうのは仕方のないことだろう。
けれど、思わずといった様子で、少し離れた冴の元へ駆け寄ろうとした夏生の行動だけは、雪奈は許すことができなかった。
自分のそばから離れ、冴の元に戻ろうとする夏生。雪奈はそんな夏生の手を掴み、すぐに自分の元へ引き戻した。
「ぅわっ、雪奈さん!?」
しっかりと夏生の腕を掴み、絶対に離さないようにありったけの力で握り締める。
けれど夏生が顔を歪めるのを見て、雪奈は一瞬手の力を緩めそうになった。夏生の腕に跡が残ってしまうかもしれないと思ったから。
だが、すぐにそれでも構わないと思いなおし、改めて力を強める。
だって今このとき、一番大切なのは、夏生を冴の元へ行かせないことだから。
もしあんな見え透いた涙に騙されて戻ってしまったら、夏生が冴に壊されてしまう。そんなことは絶対にさせてはいけない。
夏生は雪奈が幸せになるための、大切な日常の一部なのだから。
だからこれは夏生のためでもある。腕に痣くらい残っても、仕方ないことだと雪奈には思えたのだ。
「いっ、痛いよ雪奈さん」
「ダメだよ夏生くん。行っちゃダメ」
雪奈自身が驚くほど低い声が出た。
普段の声色とまったく違っていたのだろう。夏生は腕の痛みすら忘れたように、目を見開いて見つめてくる。
動揺しているのだろう。それが雪奈にはいいことだと思えた。
だってその方が言う事を聞かせやすいから。
雪奈は自信の経験から知っている。どんな状況のとき、人が何も考えられなくなって、人の言う事を鵜吞みにしてしまうのかを。
「あんなウソ泣きに騙されちゃダメだよ」
「え、でも、あれは」
「夏生くん、女の人ってね、簡単に泣けちゃうんだよ?」
雪奈はそれを証明するかのように、その場ですぐに涙をこぼしてみせる。
ずっと目を見開いていたし、そんな準備をしなくても、あの頃を思い出せば、涙なんていくらでもすぐに出てくるから。
一瞬前まで普通に会話をしていた雪奈が、その瞳から一筋の涙をこぼしてみせたことで、夏生は絶句していた。
実際にやってみせること以上に、言葉に説得力を持たせる方法はない。
たとえ冴の涙とは全然違うものだとしても、夏生はこれで、冴の涙に、どうしても疑念を持たざるを得ないことだろう。
「でも、冴は」
「ねぇ、夏生くんは、黒川さんから逃げたかったんだよね?」
「え、それは」
「だから私に相談してくれたんでしょ? そう言ってたもんね?」
「ぅ、うん。でも」
「でももなにもないんだよ。また黒川さんの言いなりに戻りたいの?」
掴んでいた腕を力づくで引いて、雪奈は夏生を引き寄せる。
よろけた形で寄ってきた夏生を抱きしめて、雪奈は耳元に囁く。
「また身体中に痣をつけられたいの? 理不尽なことで怒鳴られたいの? 奴隷みたいに土下座させられたいの? 私が助けてあげる前の生活を思い出してみなよ。あの日々に戻りたいの?」
視線だけは泣いている冴に向けて、こちらには近づくなと目で牽制し、ただ泣いていることしかできない冴に見せつけるように、雪奈は夏生の背中に手を回す。
「虐げられてた毎日を思い出して。つけられた傷の痛みを思い出して。声をかけられただけで怯えてた自分を思い出して」
雪奈は夏生の中に眠る記憶を一つ一つ、丁寧に掘り出していく。
その記憶が夏生の心の傷跡をえぐることになろうとかまわず、むしろトラウマを呼び覚ますかのように、大事な思い出を扱うよう懇切丁寧に掘り起こす。
「苦しかったでしょ? 辛かったでしょ? 逃げ出したくて、誰かに助けてほしかったんでしょ?」
雪奈が説得したかいはあったらしい。
冴にされてきたことを突きつけられた夏生は、もう頷くことすらできない様子だった。
当然だ。夏生が経験してきた日々は、けして軽く忘れられるようなものではない。同じ経験を持つものとして、雪奈はそれを知っている。
だからそのトラウマをほじくれば、夏生に言う事を聞かせるのも簡単だと、雪奈は知っていた。
「大丈夫だよ。私が助けてあげるから」
安心させるように優しい声で囁いて、雪奈は夏生に口づけを落とす。
もちろん、視線はずっと冴に向けたまま。
「夏生!」
冴が叫ぶ。けれど今度は、夏生が振り向くことはない。
雪奈はそんな夏生に満足した。今の夏生なら、自分を苦しめていた相手の元に戻るなんて、バカなことをしないはずだから。
けれど、ここまで見せつけても往生際の悪い人間とはいるもので、冴は必死に夏生を呼び続けていた。
「あたしが悪かったから! 謝るから!」
「行こう夏生くん。聞かなくていいから」
「お願い! 土下座でもなんでもする! 夏生の言う事なんでも聞くから!」
「どうせ口だけだよ。やられたことを忘れないで」
「だからお願い! あたしのそばにいてよ!」
「また言いなりにされたくなかったら、私のそばを離れちゃダメだよ」
見開いた目は焦点が定まらず、ひどい量の汗をかいている夏生。
雪奈と冴から相反することを言われ続け、もはや自分では何も考えることなどできないのだろう。
雪奈が夏生の手を引けば、何の抵抗もなく、人形のように夏生はついてきた。その様子を見ていれば、今の夏生を意のままにすることは簡単で、もう冴が何を言ったところで無駄だろう。雪奈はそう思っていた。けれど、
「ずっとそばに居てくれるって約束したじゃん!! 夏生の嘘つき!!」
その冴の慟哭は、たしかに夏生に届いていた。
もう思考することすらいっぱいいっぱいで、ただ雪奈についてくることしかできなかったはずの夏生が、その声を聞いて、確かに足を止めたから。
優しさゆえになのだろうか。
どれだけ痛めつけられて、どれだけ苦しみを与えられたとしても、夏生は冴のことを切り捨てることができていない。
もはやここまでくると、夏生の心は冴に縛られてしまっているとしか思えなかった。
そんな夏生を見て、雪奈はさらに決意を固める。
この少年は、独りでいれば絶対に流されてしまうとわかったから。
そうして、結局はなにもかもを我慢して、自らの身を犠牲にしてしまうのだろう。
雪奈には、それが許せない。
己の欲望を優先するクズのために、夏生が犠牲になることを許容することなどできるわけもなかった。
だから雪奈は決意する。
常にそばにいて、自分が夏生を守るのだと。
だから雪奈は決めた。
夏生のそばから片時も離れないことを。
「大丈夫。私が守ってあげるから」
泣き続ける冴の瞳を見れば、潔さの欠片もないことはすぐにわかった。
きっとこれからも、夏生に付きまとい、重石となろうとするのだろう。
そんな、普通の人なら躊躇するようなことを、平気でやってしまうのが、自己中な頭のおかしい人間だから。
雪奈は経験からそれを知っている。
だから雪奈は、冴から夏生を救うと決めたのだ。
「私が助けてあげるから」
夏生を連れて、雪奈は歩き出す。
絶対に夏生を冴に渡さないように、これからのことを入念に考えながら。
雪奈がしっかりと管理してあげなければ、きっと夏生は、冴の魔の手に落ちてしまうだろうから。
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