韜々
伊東巡
第1話 句点
木戸秋二の通夜は、彼の実家で静かに執り行われた。
春野琴は黒い喪服に身を包み、震える手で車のハンドルを握っていた。自宅から彼の実家までの道のりは一時間。そのあいだ、琴の心はどこか現実から切り離されたままだった。窓の外を流れていく景色は、色も温度も失われた映像のようで、自分が世界のどこにも存在しない錯覚に陥る。あの冷たい電話を受けてから、すべてが音を立てて崩れていった。
「木戸秋二さんが、本日午後三時四十分、死を選択されました」
それは、市民生活課からの事務的な通知だった。
この世界では、病も外傷も、かつてのように命を奪うことはない。人類は百年前、あらゆる疾病を克服し、生命活動を管理する「バイタル・マネジメント・システム」を確立した。それは人の寿命を無限に引き延ばしたが、同時に「自然な死」を奪いもした。だからこそ、個人が自らの意思で人生の幕を下ろすことは、尊厳ある「選択」として許容されている。だが、その選択が、まさか秋二に向けられるとは、琴には想像すらできなかった。なぜ彼が、その選択をしたのか。琴の頭の中は、その問いだけでいっぱいだった。
彼の実家の式場に着くと、すでに多くの人々が集まっていた。家族、同僚、友人たち。だが、琴には誰一人として顔なじみはいなかった。秋二と付き合って一年。互いに仕事が忙しく、なかなか家族や共通の友人に会う機会を持てずにいた。彼は「いつか、ちゃんとした時に」と照れくさそうに言っていたのに。その「いつか」は、もう永遠に来ない。
「春野琴さん、ですよね?」
不意に呼びかけられ、琴ははっと振り返った。五十代ほどの女性が立っていた。秋二に似た優しげな目元。母親だとすぐに分かった。
「はい……この度は……」
声が震え、言葉が喉に詰まる。どう言えばいいのか分からなかった。母親の、悲しみに耐える気丈な顔を直視できない。
「わざわざ来てくださって、ありがとうございます。秋二から、あなたのことは聞いていました。いつも『琴さんがいるから頑張れる』って」
母親は疲労の滲む顔で、それでも穏やかに微笑んだ。その言葉と笑みが、琴の胸を締め付けた。
「あの……なぜ、秋二さんは……」
聞いてはいけないと分かっていた。けれど、口が勝手に動いた。知りたい。知らなければ、きっと狂ってしまう。
母親の表情が、一瞬で曇る。その瞳に、拭いきれない困惑と痛みが宿る。
「私たちにも分からないんです。何も言わずに……遺書もなくて」
その言葉に琴は息を呑んだ。
秋二が、何の言葉も残さなかった? 彼はいつも周囲を気遣い、感情を抑えても思いやりを忘れない人だった。別れ際にいつも「また連絡するよ」と律儀に言い、些細なことでもメッセージをくれる人。そんな彼が、沈黙のまま「死」を選ぶなんて——。
「最近、変わった様子とか……ありませんでしたか?」
「特には。いつも通り、元気そうでしたけど。ああ、でも……」
母親は静かに首を振りかけたが、何かを思い出したように、ふと口を開きかけた。しかし、すぐに閉じて、小さく首を振った。「いえ、気のせいかもしれません」とだけ呟き、それ以上は語らなかった。その言葉尻に、僅かな引っかかりを感じた。
焼香を終え、琴が会場の隅の椅子に腰を下ろすと、一人の男性が近づいてきた。
「春野さん、ですよね。木戸の職場の同僚で、山田といいます」
「あ……はじめまして」
青年はやつれた顔で、それでも礼儀正しく頭を下げた。
「昨日も一緒に仕事していました。特に変わった様子はなかったです。普通に、いつも通りで……」
また、その言葉だ。琴の胸の奥で、違和感がかすかに軋む。
“いつも通り”——それが、こんなにも不気味に聞こえるのはなぜだろう。私が見ていた秋二は、そんなに簡単に『いつも通り』と片付けられるような、薄っぺらな人じゃなかったのに。
通夜が終わり、琴は再び車に戻った。夜の闇が濃く、エンジン音が異様に大きく響く。
秋二は、なぜ死を選んだのか。
誰も理由を知らない。遺書もない。表面上は、いつも通り。
けれど——何かが欠けているような気がしてならなかった。
思い返せば、彼はよく古びた小物を大事に扱っていた。琴が彼の部屋を訪れた時、机の上にいつも置かれていた、使い込まれた革製のレンズケース。休日に彼が首から下げていた、どこか懐かしい雰囲気の黒いストラップ。以前、「それ、何の趣味?」と尋ねたことがあった。彼は一瞬、瞳を伏せたあと、「ああ、これはね、ちょっとしたお守りみたいなものだよ」と、いつもの明るい笑顔でごまかしただけだった。
今になって思う。
あのときの笑みは、何かを隠していたのかもしれない。私には見せない、彼だけの秘密。
母親の「ああ、でも……」という言葉が、脳裏で反響する。
彼女は、何かを知っていたのではないか。あるいは、何かを見落としている。
「……確かめなくちゃ」
琴は小さく呟き、ハンドルを握りしめた。
遺品整理を手伝うという名目で、彼のアパートへ行こう。
そこに、彼の最後の痕跡が残っているはずだ。
たとえ、それが私の知らなかった彼の姿だったとしても。
知らなければ、前に進めない。
闇の中で、琴は目を閉じた。
——秋二の“選択”の真相を、自らの手で確かめるために。
彼が遺した沈黙を破るために。
韜々 伊東巡 @Junn_Itohh
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