囚われた男が鍵を持っていた話

幽歩

囚われた男が鍵を持っていた話

石神悠は、職場で「感じのいい人」として通っていた。

頼まれごとは断らず、誰にでも丁寧に接する。

だが、誰も彼のことを「親しい」とは言わなかった。


彼自身もそれでいいと思っていた。

誰かに嫌われるくらいなら、誰の心にも踏み込まない方がいい。

そうやって、彼は自分の輪郭を薄めてきた。


昼休みの食堂では、いつも隅の席に座る。

弁当を食べながら、周囲の雑談を遠い音として聞き流す。

笑い声が飛び交うたび、どこかで「自分はその輪に入れない」と知っていた。

深く考えこむと確かに寂しいという気持ちはある。でもそれ以上に、自分を偽る事に疲れるのが怖かった。

他人と関わるたびに、自分を飾り、良い人を演じる。

そうしないと嫌われる気がした。

想像するだけで息が詰まった。


——それでも、彼は丁寧だった。

ゴミが落ちていれば拾い、資料が足りなければ黙って印刷した。

誰かに感謝されることを期待していたわけではない。

ただ、“波風を立てないための礼儀”だった。


ある日、社内チャットに新しい企画が導入された。

「匿名の感謝メッセージを送ろう」というものだ。

誰が誰に送ったかは分からない。

上司は「小さな優しさを見つけよう」と明るく言ったが、石神は心の中で冷めた声をあげた。

——どうせ、盛り上がるのは一部だけだろう。


彼は誰にも送らなかった。

自分に届くことも、ありえないと思っていた。


だが、その夜、一通の通知が届いた。


「いつも静かに助けてくれてありがとう。あなたの気遣いに、何度も救われました。」


たったそれだけの短い文章だった。

名前もない。文体もごく平凡。

けれど、画面を閉じても、言葉の余韻が胸の奥に残った。


——誰かが、俺のことを見ていた?


心の奥で、何かが軋んだ。

自分の存在が、誰かの中に“痕跡”として残っていたという事実。

それは、薄く曇ったガラスに初めて陽が射すような感覚だった。


その夜、眠れなかった。

ベッドの中で、何度もあの文章を思い出した。

“静かに助けてくれてありがとう。”

自分のしてきたことが、誰かの中で形になっていた。

それが、ただ嬉しかった。


翌日から、石神は少しずつ変わった。


コピー機の前で困っている後輩に、声をかけた。

資料作成に手間取っている新人を手伝った。

会議の準備で焦っている同僚に、黙って資料を差し出した。


そのたびに、「ありがとうございます」「助かります」と言われた。


最初は戸惑った。

感謝の言葉をもらいたいから動いているわけではないと思う。

むしろ、そう思われたくないからこそ、今までは見て見ぬ振りをして黙っていたはず。

人にいかに気づかれないようにするかを心掛けていたはず。

今の自分自身の行動は矛盾している。


だが、誰かの「ありがとう」は、思っていたよりも温かく、胸の奥をゆっくりと満たしていった。


気づけば、石神の行動は自然なものになっていた。

特別なことをしているわけではない。

ただ、今までよりも周囲を少しだけ観察し、手を伸ばせるときに躊躇わずに伸ばす。

それだけのことだ。


ある日の夕方、石神が自席に戻ると、机の上に小さな箱が置かれていた。

白い紙袋には、手書きのメッセージカードが添えられている。


「石神さんへ いつもありがとうございます!女子一同より」


箱の中には、小ぶりなホールケーキ。

飾りすぎない、けれど丁寧に選ばれたことが伝わるような、優しい見た目だった。


石神はしばらく動けなかった。

誕生日を誰かに伝えたことはない。祝われるような関係性も築いていない。

と思っていた。けれど、誰かが知っていた。


胸の奥が、静かに揺れた。

それは、嬉しいというよりも、驚きに近かった。


その夜、石神は帰り道のコンビニで、紙皿とフォークを買った。

家に帰って、ケーキを切り分け、ひとりで食べながら、ふと笑った。

それは、誰かのためではなく、自分のために浮かべた笑顔だった。


人を助けることが、自分を助けることになる。

その単純な理屈を、今まで信じられなかった。

自分には、価値がないと思っていた。

だが、あの無記名のメッセージが、それを覆した。


「ありがとう」を言われた瞬間、自分が確かに“ここにいる”と感じられるようになった。

誰かの言葉が、自分の存在を肯定してくれる。それは、奇跡のような感覚だった。


無記名の送り主は、結局わからなかった。

けれど、石神はその人に、心の中で何度も礼を言った。


——ありがとう。

あなたの言葉が、俺を助けた。


それからの彼は、少しだけ柔らかい笑顔も見せるようになった。


静かな日常の中に、確かに温度が戻ってきていた。

誰かの困りごとに、石神は今日も静かに手を差し伸べる。

感謝されても見返りは求めない。

それは、誰かのためであり、同時に自分自身のためでもあるから。


そして、彼は少しずつ、自分自身を愛する方法を覚えていった。

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