卒塔婆業平
宿仮(やどかり)
第1話 在原業平
「ちょっと桜の切株に座っている爺さん、不審者っぽいよね」
そう言ったのは葛原けいこである。小野まちこは彼女がアゴ指す方向を見た。確かに身なりが変な老人がぶつぶつ何かを言っていた。徘徊老人のニュースを見たというか、小野まちこの祖母も徘徊老人でホームに入っているのだった。
それで私たちは、老人に近寄って声を掛けることにした。
「「あの~」」
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
老人は確かにそう言ったのだ。
「そうそう桜は切っちゃたっんだよ。もう桜は見れないね。だからお爺さんは、帰ったほうがいいよ」と、ケイが言う。
花見も過ぎて、この土手の桜もどんどん伐採されていった。
いや、違う。そういう意味じゃないのだ。まちこはこの歌を知っている。でも、とっさに在原業平の和歌だとは思わなかったのだ。
「警察呼ぼうか?ベンチも最近流行りの排除アートだしね。そんな腐りかけた切株に座っていると汚れるよ」
ケイはスマホを取り出し、警察に通報しようとしている。
「待って、私この人知っているかも」
待って、どうなるものでもないのだが、もう少し様子をみるべきだと、まちこは思ったのだ。
「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして」
(在原業平『古今和歌集』)
「おじいちゃん、夜までここにいるつもり?」
ケイは明らかに不審者扱いだ。実際に不審者なんだけど。
そのときふと歌が蘇ってきたの。知らずのうちに口づさんでいた。
「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしま」
(小野小町『百人一首』)
そうなのだ。小野まちこは小野小町の末裔で、白百合女学園一年・短歌部所属の小野まち子だった。「こ」は古いのでマチと呼ばれている。
「なんで知らない人と会話するのよ」
ケイがそう言うが自分だって会話しているじゃない。けいこだって「こ」を隠している。だからケイと呼ばせた。小野まちこたちのクラスでは三文字の名前より、二文字の愛称なのだ。これは余計な話だった。
「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」
(在原業平『古今和歌集』)
すると業平らしき老人が再び和歌を吟ずる。小野まちこは確信した。彼は在原業平なのだ。
「だからどこから来たのか教えてくれれば連絡するから」とケイが言う。
そんなの無理だ。だってこの人、平安時代からここにやってきたのだからと、まちこは思った。
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」
(小野小町『古今和歌集』)
またまちこは勝手に歌を口ずさんでいる。彼女がそうしたいのでなく、勝手に歌を口ずさんでしまうのだ。ケイは不審がって彼女にに言う。
「あんた宇宙人なの?へんな言葉でお爺ちゃんと会話しないでよ。こういうときはじっと聞き役に徹するのが老人介護の鉄則でしょ。先日の授業でやったでしょうが。」
「それにその歌私も知っているよ。マチの家の玄関に色紙があったよね。小野小町の歌だって、あんたの婆さんが自慢していたじゃない。」
ケイは仕切り屋だから、まちこの中の小野小町が和歌を吟ずるのを許さない。それもそうなんだけど。つい出てしまうんだから仕方がない。これも夢なのだろうか?
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