暗流
山犬 柘ろ
第1話
──白いもっちりとしたとろける果肉。芳醇な甘い香りと生臭い鉄の匂い。
何故、わたしは早くこうしなかったんだろう──。
今日はおじいさまの誕生日。
綺麗なグリーンのシフォンのワンピースに着替え、母と兄と三人連れ立っておじいさまの邸宅に行く。
お母様の姉妹である、おば様たちと私のいとこたち。他の親戚も、みんなが華やかに装って、今日はおじいさまの家に集まってくる。
この華やかな集いの裏で、ぎすぎすとした小さな棘が無数に伸び始める。
一見、華やかさと万福に恵まれたようにしか見えないこの催しだが、本当は女性たちの見栄と妬みで成り立っている。
おじいさまは大好きだ。
自分の娘たちの薄っぺらい見栄のことも理解している。きっと悲しんでいるけれど、それでも娘たちを愛していて、私たち孫のこともとても大事にしてくださる。
一人のおば様が、籠いっぱいの立派な洋梨を持ってきた。どこかで頂いたらしい。その洋梨は甘く艶めかしい香りをこれでもかと漂わせている。
母は嬉しそうにその洋梨を手に取り、
「麗奈さん、ちょうどこの前、お教えしたわね。これからは、果物くらい剥けないと恥ずかしいもの。
一度練習の成果をここでご披露してはどうかしら」
私は果物を剥いたことはない。剥き方を教えてもらったこともない。下を向いて黙っていると、末のおば様が
「誰か、この洋梨を剥いて」
とメイドを呼ぼうとしたが
「麗奈さんが剥くから結構よ」
と、母は突っぱねた。またかと周りの同情の混ざったような視線が私に集まる。
「……くた…ず」
下を向いている私の耳元で母は小さく囁く。
「やくたたず」
その瞬間、もうこの人のお遊びに付き合えないと思った。何かがぷつりと切れた。それは、子供の頃からピンと張りつめ、緩めることは許されなかった、細く鋭い糸──。
私は、皮を剥けと母が押し付けてきていた果物ナイフを掴み、母に切りつけた。
幼い頃から今までの母からの苦しみも悲しみも、彼女に求めた思いを踏みつけにされる度に感じた屈辱や憎悪も、声の限りに発し、私は母に刃を向けた。
「うわああああああああああ」
はらはらと落ち続ける涙の粒と、声か悲鳴か、叫びなのか判別できない、人の心に爪を立てて破くような、声にならない声を発し、母に何度も切りつけようとした。
何者かに抑えられ、身動きが取れなくなった。
軽やかで柔らかそうな生地の母の白いブラウスは、真っ赤に染まったところだけ、皮膚のように張り付いて見える。
母は、怯えたような顔をしてわたしを見ていたが、なぜそんな顔をできるのか不思議だった。何度も私のそんな顔を見ているはずなのに、そのときの母は平然としていたのに。
「逃げなさい」
という言葉と共に強く腕を引っ張られ広間を抜け、裏口に廻った。
声の主は末のおば様だった。
「私たちがなんとかするから、今は逃げなさい。
一人で行くの。しっかりなさい」
彼女は私に、一万円札数枚を握らせて目を潤ませ、そう言った──。
あれから長い月日が経ち、父が亡くなったときの遺産相続の話で一度兄と会った。
当時は海外出張と聞かされていた父が、愛人の家に入り浸りだったことをその時知った。
兄ではなく、いつも矛先が私に向いていたのは何故だったのか、やっと理解ができた。
幼いときから、わたしは父にとてもよく似ていたのだ。
おじいさまの家をとびだして幾年かが経ち、自分にも娘が産まれた。母から逃げた私ぐらいに娘が育った頃だったか、遠目から母を見かけたことがあった。
黒塗りの車の後部座席の窓を開け、佇む母の横顔は、女の顔をしていた。
彼女は私が子供だったときから、母ではなく、ずっと女だった。
暗流 山犬 柘ろ @karaco
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