田島慧の場合ーもう一人の自分ー

 

 石川さんと別れて、まっすぐに帰って来た203号室の自分の部屋の中は、しん、と静かだった。


 先ほどの喫茶店のように心地の良い音楽が流れているわけでもなければ、人の声が交わるわけでもない。

 

 当然だ。自分以外誰も住んでいないんだから。

 けれどそうじゃない。

 静か“すぎた”のだ。

 昨日まで聞こえていた壁の音も、呼吸音もない。


「……いなく、なった?」

 俺は畳の上に座ってスマホをポケットから取り出すと、そっとタップして録音アプリを開いた。


【REC_001】

【REC_002】

 勝手に出来上がったままの2つのファイルをぽちぽちとタップして操作する。


「……あぁ、くそっ!! やっぱりだめだ!!」


 もしかして、という淡い期待があったものの、やはりどちらも削除することができない。削除ボタンを押しても、何も起きないのだ。


 ブブッ──。

 スマホから小さなバイブ音が響いて、削除ができないその代わりに、アプリの下部に小さく文字が表示された。


【新しい録音を開始しますか?】


 操作しようとした覚えはない。

 なのになぜか指が勝手に動いて、気づけば“はい”をタップしていた。


 画面橋のランプが赤く点滅し、録音が始まった。

 その瞬間──。


 コン……コン…………。


 壁の向こうから、小さな音がした。

 一定のリズム。

 まるで、そう、ノック音のように。


「っ……誰か、いるのか?」

 俺はゆっくり立ち上がり、壁に近づく。


 ──返事は、ない。

 けれど、ノックは続いている。

 まるで“合図”だとでもいうかのように。


 俺は手を伸ばして、壁を叩き返した。

 

 コン────。


 すると、すぐに向こうから同じリズムで返ってきた。

 

 コン────。


 まるで鏡のように、ぴったりと。

 叩くたび、響きが遅れて返る。

 時間のズレが、少しずつ大きくなる。


 コン……。

 ……コン……。


 ズレている。

 しかし、そのズレが呼吸のようで、まるで音で“対話”している感覚だった。



 録音の時間がちょうど三分を過ぎたころ、スマホのスピーカーからノイズが漏れた。


 ザー……。

 録音中なのに、音が聞こえる。

 普通ならありえない。

 ノイズの中に、声が混じっていた。


『田島さん、聞こえてる?』


「うあぁっ⁉」

 心臓が跳ね上がった。

 背後に、何かいる。

 気配を感じて、意を決して背後──ベッドの方を振り返るも……そこには誰もいない。

 けれど空気の密度が違う。

 背後の、ベッドの上。その一点だけ、冷たく、重く感じる。


 スマホの録音表示が、勝手に切り替わった。

 画面に、小さくサムネイルが現れる。


「……映像?」

 録音アプリのはずが、なぜだかカメラが動作していた。


 映っているのは、今いるこの、俺自身の部屋。

 自分が見ている目の前の光景と同じアングル。

 

 ただ一つだけ違う。


 ベッドの上に、誰かが座っているのだ。

 そう、ちょうど、俺が違和感を感じた一点のあたりに。


 俺はごくり、と息を呑んだ。頬を冷たい汗が伝う。

 

 画面の中のそれの顔は見えない。

 長い前髪の陰でうつむいている。

 それでも分かった。

 服装も、髪も────自分と同じだったから。


 画面の中の“もう一人の自分”が、ゆっくり顔を上げる。

 するとその薄い唇が、かすかに動いた。


『……聞こえてる?』


 スマホが手の中で震え、映像がノイズに埋もれた。

 刹那、録音が強制終了した。

 

 画面に残ったファイル名は──────【REC_003】。

 録音時間は、やっぱり【00:03:34】。


「はぁっ、はぁっ……」

 呼吸が落ち着かない。

 まるで胸の中で鼓動が意思をもって暴れているようだ。


 机の上にスマホを置いた瞬間、壁の向こうで“何か”が動いた気がした。

 微かな擦過音。

 壁紙の下を、何かが這っているような音。


「う……うあぁぁぁああああああっ!!」

 俺はガタンッと椅子を倒しながら壁から離れた。が────。

 

 ズズッ……。

 今度は反対側の壁から、同じ音がした。


 まるで、部屋を囲むように。


「っ……はぁっはぁっ……はぁっ……」


 そしてそれが一周したかと思ったら、ぴたり、と音が止まって、それからはもう、その夜は何も起こらなかった。


 録音ファイルもアプリも、やっぱり消せない。

 スマホの電源を切っても、自動で再起動する。


 その日俺が意識を失うようにして眠りつくまでの間、画面の端には、赤い録音マークがずっと点滅していた。


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