石川匠の場合ー居住調査ー
「……帰りたい」
辞令があった翌日の夕方。
僕は薄いダンボール箱を二つ抱え、203号室のドアの前に立っていた。
そう、今日からこの203号室へ、調査のために一時住み込むことになるのだ。
僕は預かった鍵を差し込みドアノブを回すと、金属が擦れる鈍い音が響いた。
扉を開けた瞬間、あの“焦げた匂い”がまだ残っていることに気づく。
空気が部屋の形を保ったまま押し寄せてきて、僕の身体の周囲を静かに重たく包む。
どうしてか、この部屋の空気は“ゆっくり流れている”感じがする。
外の世界と混ざらない、というか……新しい風が入ってこないまま、閉じた世界の中で循環しているような匂いがするのだ。
僕は荷物を床に置き、窓を少し開けた。
窓の外は隣の建物の壁が迫っていて、空気が軽くなる気配はない。
そして──部屋の奥から、かすかな気配がした。
それを音として認識したのか、それとも気配として感じたのか、はっきりしない。
だけど確かに“何か”があった。
押し入れの奥のような、部屋の隅に沈んだ空気の層が、ふっと膨らむような動き。
それは風ではない。
換気の音でもない。
──呼吸。
喉の奥がひりつくほど静かな部屋の中で、あまりにも生々しく、あまりにも近かった。
耳を澄ますと、その呼吸は壁に吸われるようにして薄れ、次の瞬間には僕の背後で触れるほどの距離に現れた。
皮膚の表面が泡立つような感覚が走る。
そして、聞こえた。
『……聞こえてる?』
囁き声は、壁の向こうからではなかった。
耳元に直接落ちてきた。
まるで、誰かが息を潜めて、僕の鼓膜にだけ話しかけているような近さで。
声の高さは低くも高くもない。
男女の区別すら曖昧な、湿った声。
けれど、僕はその声を聞いた瞬間に悟った。
──録音データの声だ。
あの、スマホに残された奇妙な呼吸と、掠れた“問いかけ”とまったく同じ音質。
距離も、空気の揺れ方も。
僕は無意識にごくりと喉を鳴らし、振り返った。
「っ……」
──だけどそこには何もいない。
ただ、畳に落ちる僕の影だけが細く揺れていた。
夜、再び調査を開始する。
スマートフォンを部屋の真ん中に置き、録音開始。
静まり返った203号室の空気が、ふっと揺れたように感じた。
次の瞬間、壁の内側――まるで薄い紙一枚の向こう側から、湿った囁きが滲み出してきた。
『……聞こえてる?』
はっきりとしたそれに、僕の喉がまたひとりでに鳴った。
呼吸が浅くなる。
妙に息苦しい。
だが、録音アプリに映る音の波形は、僕が息を吸うタイミングとぴたりと重なっていた。
まるで囁きが、僕の肺と連動しているみたいに。
僕が吸えば声も吸い、僕が吐けば声もかすかに震える。
胸の奥に他人の呼吸が入り込んでくるような、ぞわりとした嫌な感覚が背骨を走った。
息を整えようとスマートフォンに目を向けた、その時だ。
真っ黒な画面の上に、何かがじわっと浮かび上がった。
初めは光の反射かと思った。
だが、それはゆっくりと文字の形を成していった。
『カメラは向けないで』
手書きのような、掠れた線。
指先で触れても、画面上には何もなかった。
なのに文字は、内側から押し出すように震えながら現れたのだ。
僕は目を離したらその文字が僕に向かって“顔を上げる”ような気がして、しばらく動けなかった。
「と……とりあえず一旦落ち着こう」
そう口にしてから深呼吸し、記録を残すためにスマホを手に取った。
ところが画面を点ける前に、ぶぶっ、とバイブレーションが震えた。
見れば──録音アプリが勝手に起動していた。
明らかに触れていないのに、画面には赤い丸いアイコンと、動き続ける数字が表示されている。
【00:03:12】
はっ、と息を呑んだ。
動き続けるすうっじに、【00:03:34】──あの部屋で見つけた録音と同じ、あの数字が頭に浮かぶ。
僕がスマホを見下ろした瞬間、背後で畳が微かに沈むような気配がして振り返ると、天井の隅で影が震えたように見えた。
僕は部屋の中央に座り込むと、鞄からノートとペンを取り出して、震える手で記録を書き始めた。
ペン先が紙に触れる音すら、やけに大きく感じる。
部屋は静かだ。
だが沈黙の奥には、別の音が潜んでいるようなきがして、ひどく不気味だった。
3分34秒が近づく。
スマホの画面が赤い数字を淡々と積み重ねていく。
00:03:22
00:03:25
00:03:28
壁の向こうから、微かな擦れる音がした。
乾いた指先が壁の表面を引っかくような、かすかな音。
202号室側の壁だ。
録音データを聞いた時と同じ感覚が、背中を這い上がってくる。
音は、次第に近づいてくる。
壁の“内側”を何かがゆっくり移動している。
やがてその動きは、ドアの方で止まった。
呼吸が、また聞こえた。
壁の中から、扉の向こうへ移動し、そして僕のすぐ側へと寄ってくる。
耳のすぐ後ろで、湿り気を帯びた囁きが滲んだ。
「……いしかわ……」
「いしかわ……たくみ……」
僕の名前だ。
あの時の田島さんの録音と同じ。
いや、それ以上に近い。
冷たい指が、頬をすっと撫でたような感覚がした。
スマホを見る。
【00:03:34】
数字が揃った瞬間、部屋の空気がひとつ震えた。
「【REC_009】……」
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