石川匠の場合ー203号室ー
10月25日の今日、3日間続いた警察の現場検証が終わると連絡があった。
調査入居をする前に一度部屋に入っておきたくて、僕は現場検証が終わったばかりの203号室を訪ねることになった。
薄い灰色の雲がかかった空の下、みどり荘の外観は、いつになく色が抜けたように見えた。
僕は管理会社の腕章をつけ、ちょうど撤退作業中だった警察の人とともに203号室の前へと立つ。
扉の前に立つと、胸の奥の鼓動がひとつ、妙に大きく鳴るのが感じられた。
初めてこの部屋に入った時には感じなかった種類の緊張だ。
“何か”がこの扉の向こうにいる──そんな気配が、皮膚の表面に沿ってぞわりと這う。
「大丈夫、ですか?」
「あ、は、はい。大丈夫です。すみません」
あまりに呆けた様子の僕を不思議に思ったのか心配そうに僕の顔を覗き込んだ警察官に、僕は張り付けたような笑顔で答えた。
ふと隣を見れば、202号室の扉に何かが貼られている。
白いメモ帳の切れ端。
鉛筆で、こう書かれていた。
『録音 3分34秒』
紙には赤い小さな染み。
触れたら……まだ湿っていた。
「何だこれ、こんなの無かったはずだけど……」
警察官がそれを見て、不思議そうな顔をして言った。
無かった?
田島さんの203とその隣の202は、警察が今までずっと捜査してたんだよな?
その目をかいくぐって?
いつ?
誰が貼った?
録音、3分34秒って……いったい……?
「と、とりあえず、203、入りますか?」
「え……あ、はい」
そうだ。僕は今日はこっちの下見に来たんだ。
202に用はない。
警察官が鍵を差し込み、ゆっくり回す。
カチリ────。
その軽い音に反して、警察官が扉を押し開いた瞬間、内部のどことなく重苦しい空気がどっ……と流れ出してきた。
鼻をつく匂いに、思わず呼吸が止まる。
カビでもない、腐敗でもない。
もっと乾いた、そしてどこか金属質な匂い──。
古い電線がショートした時のような、金属を焼いたような焦げ臭さ。
その匂いが、まるで手のように僕の喉元を掴んだように感じた。
「……重いな」
隣の警察官が呟いた。
「え……?」
「ここ、なんか空気がよどんでいる、というか……。ほら、窓を開けたらすぐそこに壁があるんですよ。だからか少し空気が悪くて……。僕たちも、調査でずっとそこにはいられないんですよね。ずっといたら、なんて言うか……頭がおかしくなりそうになる。だから、1,2時間おきに交代しながら調査をしていたんです」
空気がよどんでいる。
それだけで頭がおかしくなりそうになるなんてこと、あるのだろうか。
そんな疑問がわいてきたが、僕は曖昧に相槌を打つだけで、静かに、その部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中央には、ぽつりと黒い四角い塊があった。
普段の生活の中で見慣れた、スマートフォンだ。
だけどその存在がこの無人の部屋ではあまりに異物で、心臓が不自然に高鳴った。
「これ……こんなもの、調査中にはなかったのに、何で……」
驚き息を呑む警察官をよそに、僕はその異質な存在に近づき、恐る恐る画面を覗き込んだ。
「え……」
赤いアイコンが点滅している。
【00:03:25】
その数字を見た瞬間、背筋に冷水を垂らされたような感覚が走った。
なぜ、この部屋で?
誰が録音を始めた?
何を録った?
「と、とりあえず、警察の方で預かりますね」
警察官が手袋越しに端末に触れた──刹那、スマートフォンの画面がブルルッと揺れた。
ザッ──。
ノイズが一瞬だけ走り、録音アプリが勝手に閉じる。
警察官は眉をひそめ、「……電源、か?」とつぶやいたが、僕にはそうは見えなかった。
“何か”が、録音を終わらせた。
そう感じた。
録音時間は──【00:03:34】。【REC_009】
部屋に入った瞬間、僕は気配を感じていた。
“もうここにはいない”のではなく、“ここにまだいる”という気配。
まさか“ソレ”が、録音を……?
いやいやいや、そんな非現実的な……。
妙な気持ち悪さを感じながら、僕は部屋の中を見渡した。
203号室は、契約時のままの状態だった。
生活の気配が、まったくない。
しかし空気は、何かをはっきりと語っているようだった。
この数日間、この部屋で何かが起きていた、と。
まず目に入ったのは窓際の畳だった。
畳の一部が、不自然に黒ずんでいる。
近づき、指先でそっと触れてみるとざらりとした質感がある。
乾いている。
煤のようだ。
しかし暖房器具も、コンロも、焦げ跡すらない。
どうすれば畳だけが燃えずに煤を残す?
説明のつかない“焦げた匂い”の源は、おそらくここだ。
202号室側の壁に、不自然な影があった。
近づいて目を凝らすと、それが影ではなく“手形”であることに気づく。
だがその手形は──明らかにおかしい。
指が、長い。
人間の指の比率とは違う。
5本だが、一本一本が通常の二倍近くある。
まるで白い壁の内側から、誰かが押し出してきたように、
表面がわずかに盛り上がっている。
誰も言葉を発せず、部屋が沈黙で満たされる。
カメラで撮影しようとすると、さらに異常が起こった。
警察官が構えたカメラのシャッター音が三度、確かに鳴った。
だが、確認するとデータがすべて破損している。
「まただ」
「おかしいな……さっきまでは普通に撮れたのに」
その会話を聞きながら、僕の心の中ではすでに結論が出ていた。
──おかしいのは、機械ではなく、この部屋だ。
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