田島慧の場合ーそこに、いる?ー
──夕方、かすれたような音でチャイムが鳴った。
このアパートで初めての来客だ。
ドアを開けると、若い女性が立っていた。
首から名札を下げているが……何かの商品の売り込みか?
俺が訝し気に眉を顰めて「何の用っすか?」と尋ねると、女性は首にかけている名札を俺の方へと差し出して言った。
「みどり荘203の田島さんですよね? 私、ここのアパートの管理をさせていただいております不動産管理会社セルヴィの蓮見と申します。すみません、ちょっと確認があって……」
彼女は申し訳なさそうに頭を下げて続けた。
「実は、隣の202のメンテナンスに入る予定があったのですが、使用されている痕跡がありまして……。よろしければお隣である田島さんに、立ち合いの確認をお願いしたく……」
それを聞いて、胸の奥がざわついた。
202──。
空き部屋のはずの……変な音が聴こえる部屋。
「……確かあそこ、今も空きなんです、よね?」
「はい。少なくとも契約上は。でも、電気が……動いてるんですよ。度々」
「え……動いてる?」
「えぇ。メーターが時々回っていて……。つまり、誰かが電気を使ってたことになるんです。昨日の夜もそうだったみたいで……」
彼女の声が遠のく。
昨日の夜……、だって?
俺の頭の中に、昨夜のあの録音のことがよぎった。
あの時間、隣の電気が──。
「あの、いいですか? 今から」
「え、あー、でも、こういうの普通、大家さんが立ち会うんじゃ……?」
俺はあくまで一般の入居者だ。
他の部屋について何の権利も持っていないんだが……。
俺の質問に、蓮見さんが困ったように眉を垂れた。
「それが、確かに大家さんにまずお話を持って行ったのですが、腰が痛いから2階まで行けない。自分の代わりに隣の203の田島さんを立ち会わせてくれ、と言われまして……」
なんて無責任なこと言ってくれてんだあの婆さん……。
大家だろ、責任感持てや。
そんな悪態を心の中でつくが、蓮見さんには関係ない。むしろ被害者だ。
「わかりました。んじゃぁ、行きましょう」
ため息交じりに俺から飛び出た了承の言葉に、蓮見さんは安堵したように笑って「ありがとうござます!!」と頭を下げた。
***
廊下の真ん中の部屋──202号室。
プレートの数字は文字と背景の境がわからないくらいに黒ずんで、鍵穴には古い錆がこびりついている。
俺の203もボロかったけれど、ここもまたずいぶん年季が入ってるな。
蓮見さんが不動産会社管理の合鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
すると鳥肌が立ちそうな金属が擦れる音がして、ドアが少し重たそうに開いた。
「どうぞ。暗いので足元にお気を付けて」
「あ、はい」
中は本当に暗かった。
自分の部屋もたいがいだが、それよりももっと暗くて、埃っぽい匂い。
床に薄い布団の跡のような凹みがある。
「誰も……いませんね」
蓮見さんはブレーカーのランプを確認しながら言った。
彼女はそのまま部屋の奥へと進み窓を開けて歓喜をし始めるが、俺は動けなかった。
部屋の奥、窓の下。
そこにノートが一冊落ちていたからだ。
見覚えがある。
自分の机に置いていたものと、まったく同じだ。
「あれ? これ……」
蓮見さんが足元のノートの気づいて、それを拾い上げる。
「これは……。あの、田島さん、少し見てもらっていいですか?」
蓮見さんが足元のノートを拾いぱらぱらとページをめくってから、はっとしたように顔を上げ俺の方へと振り返る。
え、何?
何か、あったのか?
俺はごくりと喉を鳴らすと、彼女に歩み寄りそのノートに手を伸ばした。
そして開いたページには、黒のインクでこう書かれていた。
『田島さん、聞こえてる?』
「うわぁぁぁあああっ!?」
俺は情けなくも思わず声を上げて、思いっきり尻もちをついて倒れ込んだ。
そのノートには一行だけ、震えるような筆跡で確かにそう書かれていたのだ。
そして文字の下には、乾いた赤黒い染みが滲んでいた。
なんだよ、これ……。血……?
いや、いやいやいや、まさか……な……?
「た、田島さん!? 大丈夫ですか!?」
すぐさま自分のもとに駆け寄る蓮見さんに、俺はノートを閉じ、首を振った。
「あ……す、すみません……。大丈夫、です」
嘘だ。
全然大丈夫じゃない。
あれは、俺のノートだ。
だって中に、俺が書いた短い記録も一緒に記載されていたのだから。
だけど一体、どうして?
何でこの202号室にノートが?
「これ、田島さんのお知り合いの、ですか?」
「あ、いえ……。俺のノート、ですけど……何でここにあるのか……」
この部屋はしっかりと施錠してあったし、俺が鍵を持っているわけがない。
そうだ。
そもそもここに誰も入る事なんてできないんだ。
つまりメーターが回ることだってあり得ない。
じゃぁなんで……?
いったいここにいたのは────ダレだ?
「た、田島さん、血」
「え……」
血?
思わず見たのは、先ほど見たばかりのノート。
だが蓮見さんの視線は、俺の手元にあった。
辿ってみれば、右手の人差し指が切れて、じんわりと血が滲んでいるではないか。
さっきノートで切ったのか?
気づいた途端、ずきずきと鈍い痛みが指先に響き始めた。
地味に痛いんだ、指先は。
「大変。これ、良かったらどうぞ」
そう言って
蓮見さんは、鞄から何かを取り出し俺に手渡した。
──猫の絵が描いてある絆創膏だ。
「あ、ありがとうございます」
不思議な気持ちになった。
いや、30近い大の大人が猫の絆創膏だなんて、っていう恥ずかしさももちろんあるけれど、それ以上に、久しぶりに感じる人のぬくもりに、俺は凝り固まった表情筋を動かした。
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