エピローグ


 それからすぐに、大家との話し合いを経て、みどり荘が解体されることが正式に決まった。

 理由は簡潔にそれらしく「老朽化」と「安全性の懸念」と発表されたが、裏で管理会社が異常な早さで動いたことを、俺は知っていた。


 大家は解体について話を切り出された際、少しだけ考えた後、自身の部屋の上──203号室の方を見上げて小さく「まぁ、仕方ないさね」とつぶやいたそうだ。

 解体費用は管理会社が持つことになったみたいだが……まぁ、思うことはやっぱりあったんだろうと思う。


 そこから解体の日まで、俺はあの部屋に行くことはなかった。

 203号室で過ごした一夜があまりにも鮮烈で、あれ以上“近づく”ことを本能が拒んでいた。


 そして解体の日。

 空はどんよりと曇り、冷たく湿った風が吹いていた。

「暖かくなってからで良いのでは?」という解体業者の意見を突っぱねての異例のスピードでの解体実行だった。


 俺は久しぶりにそこへ行って、佐久間と一緒に現場から少し離れた場所でカメラを構えずにただ見ていた。

 レンズ越しに見る勇気は、今はなかったからだ。

 そこには元大家さんも、久我君もいた。


 バキバキバキバキ……、と大きく乾いた音と共に古びた木造の外壁がはぎ取られ、階段の錆がむき出しになり、最後に、二階の壁が削られていく。


 203号室の、202号室側の壁面が完全に取り払われた、その時だった。

「っ!?」 

「うそだろ……」

 それを見た時、胸の奥が急に冷たくなった。


 空洞で木材で組まれているだけのその壁が、まるで“内臓を見られた生き物”のように赤黒い染みをじわりと含ませている──。

 気味が……悪い。

 

 すると業者の一人が、ヘルメット越しに小さく声を上げた。


「ぁ……あぁっ……なんだ……これ……なんでこんな……っ!?」

 重機が止まり、人の気配が一点に集まる。

 嫌な予感に突き動かされ、俺も、佐久間や久我君と共に駆けつける。


「っ──これは…………っ」

「おいおいおい……なんてこった…………」

「そんな……」

 3人そろって、その異様な光景に絶句した。


 202号室と203号室の間。

 つまり、俺が“呼吸”を感じたあの壁の内部。


 そこから引き出されたのは――木片でも、布でもなかった。


 先に見えたのは、細い白い線。

 乾き、砕け、折れ曲がった無数の細片。


 近づくにつれ、それが何かすぐにわかった。

 人間の肋骨に似た曲線。

 指の骨のような小さな節。

 大小も方向も揃わない骨の断片が、壁の中に層になって詰まっていたのだ。


 そして、骨の隙間から絡みつくように溢れ出していたのは――無数の毛髪。


「うっ……」

 隣で久我君が口元を抑える。


 おびただしい程の毛髪が絡まり、古い木材に貼りついて、風に触れられるたびにかすかに揺れている。

 まるで、まだそこにある何かが、息をしているかのように──。


「……何人分だ、これ……?」

 その小さな問いかけには、誰も答えられない。


 一本一本は細く、もろくなっているようだが、量が異常だった。

 壁一面を覆えるほどの毛髪が、

 骨と一緒に、意図的に詰め込まれたように見えた。


 俺は震える手で久我君と同じように口元を覆った。

 手先が冷たく、ふるふるとしびれる。


 この中から……聞こえていたのか…………。

 俺の名前を呼んだ“声”は────。


 記憶が生々しく蘇る。

 壁の中の呼吸。

 ノイズに混じった囁き。

 膨らむ壁。

 四回目のシャッター音。


 それらすべてが、骨と髪の山になって目の前に突きつけられている。


「……おい見ろ!! こっちの!! これは他のと違って状態がしっかりしてるぞ!!」

 そんな声に導かれるようにそちらへ視線を向けると──。


「っ……これは……」

「まさか──」


 おびただしい程の毛髪の中に、埋もれるようにいたのは──まるで自分からこの中に入り、自ら喜んで死を選んだかのように綺麗な状態で立ったままの、遺骨。


「────田島慧……」

 なぜだか、そんな気がした。


 覗いていたんだ。

 自分の音が。声が。

 聞こえているかどうかを。

 ここで。ずっと────……。


 その名をつぶやいた刹那、ぶわっと吹いた冷たい風が、足元の瓦礫を揺らした。

 カランカラン、と小さく高い音を立てて、骨の一部がころころと転がり落ちる。


 すると──風ではありえない方向から、音が、響いた。


“すう……はあ……”


 幻聴だ。

 そう決めつけたいのに、決めつけられない。

 だってこれを、俺は知っているから。


 まるで、壁の中にいた“それ”が、最後にひと息だけ吐き出したかのようだった。


 作業員たちが骨を運び出していくあいだ、俺はただ立ち尽くしていた。

 その場を離れようとしても、足が動かない。


 風が止んで、曇った空が、灰色のままその作業を見守る。


 俺はそっと目を閉じ、微かな呼吸音が消えるのを待ったけれど、ダメだった。

 静かに息を顰めるごとに、その音は静かに、確かに、俺の胸の奥で反響するようだった。


『聞こえてる?』


 そんな声が、もう録音機の中ではなく、自分自身の内側から聞こえた気がした。


 その感覚は、解体が終わったあとも、しばらく消えなかった。


 ――みどり荘203号室の“呼吸”は、壁の向こうではなく、すでに俺の中に棲み始めていたのかもしれない。


 そう思った時、俺は初めて本当の意味で、背筋から冷たいものが這い上がってくるのを感じて、震える唇で小さくつぶやいた。


「…………聞こえてるよ」


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