遺跡茶房の真実 ~婚約破棄された令嬢が開く、心を癒すカフェ~

ソコニ

第1話 城を離れ、石の記憶に触れる朝


 霧が濃い。

 アサギは馬車から降りた瞬間、冷たい空気が肺を満たすのを感じた。城の壁はもう見えない。振り返っても、白い靄が全てを呑み込んでいる。

 石畳は湿って、靴底が微かに滑る。苔の匂いと、何か甘い花の香りが混ざっている。隣でミストが鼻を鳴らし、アサギの手を優しく押した。

「大丈夫よ。もう、戻らないから」

 自分に言い聞かせるように呟く。声が霧に吸い込まれていく。

 本当に、これでよかったのだろうか。

 脳裏に蘇るのは、三日前の婚約破棄の場面。

 大広間。煌びやかなシャンデリアの下で、婚約者だったはずのレオナルド公爵が冷たい声で告げた。

「アサギ・フォン・エルスタイン。貴女との婚約を破棄する」

 貴族たちの視線が突き刺さる。ひそひそと囁く声。

「やはりね」「令嬢とは名ばかり」「血筋に問題があるのでは」

 レオナルドは続けた。

「貴女には、王妃となる価値がない」

 その言葉を聞いた瞬間、アサギは理解した。

 これは——政略的な口実だ。

 本当の理由は別にある。自分が王族の血を引くことが、宮廷内で囁かれ始めたから。厄介な存在になる前に、切り捨てる必要があったのだ。

「あなたには価値がない」という言葉は、実は彼女を守るための嘘だったのかもしれない。王位継承権を持つ者として表舞台に出れば、命を狙われる。ならば、価値のない令嬢として生きる方が安全だ。

 でも、アサギはもう疲れていた。

 嘘の中で生きることに。

 自由のない日々に。

 だから、逃げた。

 馬車に揺られること二日。誰も知らない森の奥へ。地図に載っていない、古い遺跡があるという噂を頼りに。

 霧の中を歩く。森の奥へ続く道は、誰も歩いた形跡がない。でも、不思議と恐怖はなかった。むしろ、初めて自分の足で歩いている実感があった。

 その時——城門での出来事が脳裏に蘇る。

 出発しようとした瞬間、護衛騎士のヴェルナーと目が合った。

 銀髪に青い瞳。20代後半の彼は、アサギが10歳の頃から護衛として仕えていた。冷静で、感情を表に出さない男。でもその瞳には、時折温かみが宿る。

「アサギ様」

 低く、落ち着いた声。

「どちらへ」

 アサギは答えなかった。ただ、小さく首を振る。

「追ってこないで」

 小声で懇願した。

 ヴェルナーの表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。

「......逃がすわけにはいかない」

 でも、その視線には迷いがあった。

「職務だ」

 言葉とは裏腹に、彼は剣に手をかけなかった。ただ、じっとアサギを見つめていた。

 アサギは馬車に乗り込んだ。振り返ることなく。

 でも——心のどこかで分かっていた。

 ヴェルナーは必ず追ってくる。

 それが彼の職務だから。

 どれくらい歩いただろう。

 突然、霧が晴れた。

 目の前に、巨大な石の壁が現れた。

 高さは三階建ての館ほど。表面には複雑な文様が刻まれ、朝日を浴びて虹色に光っている。アイビーが這い、一部は崩れているが、威厳は失われていない。

 遺跡——地図にはこう記されていた。

「ここが......」

 アサギは震える手を伸ばし、石に触れた。

 冷たいはずなのに、微かに温かい。脈打つような感覚が指先に伝わる。

 まるで、生きているかのように。

「......歓迎してくれているの?」

 扉は半分開いていた。中からは柔らかな光が漏れている。

 深呼吸をして、一歩踏み出す。

 靴音が石の廊下に響く。壁の花の模様が、まるで生きているかのように揺らめいて見えた。天井は高く、ところどころから光が差し込んでいる。

 歩くほどに、胸の奥に溜まっていた何かが少しずつ溶けていく。

 緊張。

 不安。

 恐怖。

 それらが、この遺跡の静けさに吸い込まれていくようだった。

 奥へ、奥へ。

 廊下は幾つもの部屋へと続いている。覗き込むと、かつて人々が暮らしていた痕跡が残っている。寝室らしき部屋、書庫のような空間、そして——。

 アサギは立ち止まった。

 広い部屋。高い天井、大きな窓、そして壁際に並ぶ石の棚。

 その棚には——。

「これは......」

 透明な急須と、いくつもの茶葉の缶が並んでいた。

 急須を手に取る。驚くほど軽い。ガラスのように透明だが、もっと温かみがある。よく見ると、表面に細かな紋様が刻まれている。花びらが舞い散るような、流れるような模様。光の角度によって、虹色に輝く。

 隣の缶を開けてみる。

 中から、かぐわしい香りが立ち上った。

「すごい......こんな香り、初めて」

 深い緑色の茶葉に、金色の粒が散りばめられている。鼻を近づけると、花のような、果実のような、それでいて爽やかな香り。城で飲んでいた最高級の紅茶とも、まるで違う。

 喉の渇きを覚え、お湯を探すことにした。

 奥のドアを開けると——そこには予想を超えた光景が広がっていた。

 石造りの立派なキッチン。調理台、かまど、棚、そして——。

「泉......!」

 部屋の隅から、澄んだ水が湧き出ていた。小さな泉を作り、余った水は細い水路を通って外へ流れていく。水音が心地よい。

 恐る恐る手を入れてみる。冷たくて、肌に吸い付くような清らかさ。

 手ですくって、少し口に含む。

「——!」

 まろやかで、ほんのり甘みすら感じる。今まで飲んだどの水より美味しい。魔法の泉、という言葉が頭に浮かんだ。

 かまどを見ると、既に薪が組まれている。誰が? いつ?

 でも今は考えるのをやめよう。

 火打ち石を探していると、不思議なことが起きた。

 かまどに手をかざした瞬間、ひとりでに火がついたのだ。

「えっ?」

 驚きながらも、鍋に泉の水を汲み、火にかける。透明な水が、少しずつ温まっていく。

 待つ間、アサギは棚を探索した。小麦粉、はちみつ、塩、砂糖——基本的な食材が揃っている。しかも、どれも新鮮。まるで昨日仕入れたばかりのよう。

 この遺跡は一体——。

 お湯が沸いた。泡がぽこぽこと立ち、湯気が立ち上る。

 慎重に急須に茶葉を入れる。分量は——なぜか、自然に手が動いた。まるで、ずっと前からやっていたかのように。

 お湯を注ぐと——。

 部屋中に、素晴らしい香りが広がった。

「なんて......いい香り」

 花園の朝露のような清々しさ、熟した果実のような甘やかさ、そして心を落ち着かせる深い香り。急須の中で、茶葉がゆらゆらと踊る。金色の粒が、きらきらと輝きながら溶けていく。

 三分待って、カップに注ぐ。

 透き通った金色の紅茶。立ち上る湯気と共に、さらに豊かな香りが鼻をくすぐる。

 震える手でカップを持ち上げ、唇に運ぶ。

 一口——。




「......っ!」

 言葉にならない。

 舌の上で広がる複雑な味わい。最初は花のような華やかさ、次に果実の優しい甘み、そして最後にすっきりとした余韻。でも、それだけじゃない。

 身体の芯から、温かくなっていく。

 そして——視界が、揺らいだ。

 カップを持つ手が震える。

 目の前の景色が歪み、別の光景が浮かび上がる。

 幼い頃の記憶——。

 暖炉の前。母が紅茶を淹れている。優しい笑顔。柔らかな声。

『アサギ、見ていて。お湯はこうして、ゆっくり注ぐのよ』

 母の手元を見つめる幼いアサギ。

『お母様、私も淹れてみたい』

『ええ、いつか教えてあげるわ。でもその前に——』

 母の表情が、少しだけ曇る。

『あなたの本当の名前は——』

 そこで、記憶が途切れた。

 母の顔が霞み、声が遠のく。

 次に浮かぶのは——母の涙。

 ベッドに横たわる母。青白い顔。震える手。

『アサギ......ごめんなさい』

 幼いアサギは泣いている。

『お母様、行かないで』

『......いい子ね。強く、生きて』

 そして——母の手が、力なく落ちた。

 視界が戻る。

 アサギは気づいた。

 自分が泣いていることに。

 カップを持つ手が震え、紅茶の表面が波打つ。

「お母様......」

 小さく呟く。

 母は何を言おうとしていたのか。

 「本当の名前」とは——。

 その時だった。

「わあっ! やっと来た!」

 突然、甲高い声が響いた。

 アサギは驚いて顔を上げる。

 目の前に、小さな光の玉がふわふわと浮いていた。よく見ると、その中に手のひらサイズの人の形が見える。透き通った羽、大きな瞳、そして——光っている。

 金色に、きらきらと。

「あ、あなたは......?」

「ボク、フィー! ここの番人なの!」

 光の玉——フィーは嬉しそうにくるくると回りながら、アサギの周りを飛び回る。

「ずっと待ってたんだよ! 誰も来なくて、寂しかったんだ!」

 アサギは呆然とフィーを見つめる。

 精霊——伝説でしか聞いたことがない存在。

「ねえねえ、お姉ちゃん誰? 新しい住人さん?」

 フィーはアサギの肩にふわりと降りた。温かい。光は柔らかく、眩しくない。

「私は、アサギ。昨日ここに来たばかりで......」

「アサギ! いい名前! ねえ、紅茶飲んだの? どうだった?」

 フィーの大きな瞳が、期待に輝いている。

「すごく......美味しかった。でも——」

 アサギは言葉に詰まる。

 記憶が蘇ったこと。母の姿が見えたこと。それを、どう説明すればいいのか。

 フィーは首を傾げる。

「変なもの見えた?」

「......え?」

「この遺跡の紅茶はね、特別なの。飲むと、心の奥に隠れてるものが少しだけ見えるんだ」

 アサギは息を呑む。

「心の奥に......」

「うん! でも怖がらなくていいよ。悪いものじゃないから。ただ、忘れてたことを思い出すだけ」

 フィーはアサギの頬に小さな手を当てる。

「泣いてるね。辛いこと、思い出しちゃった?」

 アサギは頷いた。

「母を......思い出したの」

「そっか。大事な人なんだね」

 フィーの光が、少しだけ青みを帯びる。

「ボクも、昔ここにいた人たちのこと思い出すと、寂しくなるよ」

「昔、人がいたの?」

「うん。たくさん。この遺跡はね、昔は大きな街だったんだ。人々が集まって、笑って、泣いて、生きてた」

 フィーは窓の外を見る。

「でも、みんないなくなっちゃった。戦争とか、病気とか、色々あって」

「それで、あなたは一人でここに......」

「ううん、寂しくないよ! だって——」

 フィーは再び金色に輝く。

「アサギが来てくれたから!」

 そして、アサギの肩から飛び上がり、くるくると回る。

「ねえねえ、ずっとここにいてくれる? ボク、お手伝いするよ! お掃除とか、料理とか、味見とか!」

 最後のは仕事じゃない気がするけれど、フィーの無邪気な喜びように、アサギも自然と笑顔になった。

「ええ、いるわ。ここで——」

 ふと、アイデアが浮かぶ。

「カフェを開こうと思うの」

「カフェ! それって、美味しいものがいっぱいあるところ?」

「そうね。紅茶とお菓子を出すお店よ」

「すごーい! ボク、看板作る! お掃除もする! 味見も——」

「味見は後でね」

 アサギは笑う。城では決して見せなかった、自然な笑顔。

 フィーはますます金色に輝く。

「やった! じゃあ今日から準備だね!」

 そう言って、フィーは部屋中を飛び回り始める。

「ここを片付けて、あそこに椅子置いて、テーブルはここで——」

 その姿を見ながら、アサギは思う。

 ここが、私の居場所になるかもしれない。

 自由に生きられる場所。

 誰にも縛られない場所。

 そして——心の重荷を、少しだけ軽くできる場所。



「ねえねえ、アサギ!」

 フィーが戻ってきた。

「この遺跡のこと、もっと教えてあげる!」

「ぜひ聞きたいわ」

 アサギは新しい紅茶を淹れる。フィーの分も——小さなカップに少しだけ。

「ありがとう!」

 フィーは嬉しそうにカップを抱える。

「この遺跡はね、昔の人たちが作った特別な場所なの」

「特別?」

「うん。ここはね——逃げてきた人のための場所なんだ」

 アサギの手が止まる。

「逃げてきた......人?」

「そう。辛いこととか、悲しいこととか、怖いこととかから逃げてきた人たちが、ここで休むの」

 フィーは紅茶を一口飲む。

「そして、この紅茶を飲むと——」

「心が少しだけ軽くなる」

 アサギが続ける。

 フィーは頷く。

「そう! でもね、完全には消えないの。それが大事なんだって」

「完全には......消えない?」

「うん。辛いことや悲しいことを全部忘れちゃったら、その人はその人じゃなくなっちゃうから」

 フィーは真剣な表情で言う。

「だから、少しだけ軽くする。そうすれば、また前に進める」

 アサギは紅茶を見つめる。

 金色の液体が、カップの中で静かに揺れている。

「なるほど......だから、母の記憶が蘇ったのね」

「そうだよ。アサギが心の奥に隠してた、大事な記憶」

 フィーはアサギの手に小さな手を重ねる。

「辛かった?」

「......ええ。でも——」

 アサギは微笑む。

「思い出せてよかった。母の顔を、ちゃんと覚えていたんだって分かったから」

 フィーは嬉しそうに金色に輝く。

「よかった! じゃあ、この紅茶はアサギの役に立ったんだね!」

「ええ。きっと、他の人の役にも立つわ」

 アサギは立ち上がる。

「だから、カフェを開くの。この紅茶を、必要としている人に届けたい」

 フィーは飛び上がる。

「やった! じゃあ、準備しよう!」

「ええ。まずは——」

 アサギは部屋を見回す。

「掃除と、家具の配置ね」

「任せて! ボク、お掃除得意なの!」

 フィーは光を放ちながら、部屋中を飛び回り始める。すると不思議なことに、埃が舞い上がり、窓の外へ飛んでいく。

「すごい......」

「えへへ、精霊の力だよ!」

 アサギも掃除を始める。棚を拭き、床を掃き、窓を磨く。

 働くことの喜び。

 自分の手で何かを作り上げる喜び。

 城では、全て使用人がやってくれた。アサギは何もする必要がなかった。

 でも今は違う。

 自分の手で、自分の居場所を作る。

 それが、どれほど自由で、どれほど嬉しいことか。

「アサギ、見て見て!」

 フィーが指差す先を見ると、広間が現れた。

 高い天井、大きな窓、そして石のテーブルと椅子がいくつも並んでいる。

「ここをカフェスペースにしよう!」

「素敵ね。ここなら、たくさんのお客様を迎えられるわ」

「うん! 楽しみだね!」

 二人は広間の掃除を始める。

 窓を開けると、森の新鮮な空気が流れ込んでくる。鳥のさえずり、風の音、そして——。

 ミストの鳴き声。

「あ、ミスト」

 アサギは窓から外を見る。

 愛馬のミストが、遺跡の近くで草を食んでいる。月毛が朝日を受けて、きらきらと輝いている。

「お馬さんだ!」

 フィーが興奮して飛び回る。

「うん。ミストっていうの。私の大切な友達」

「かわいい! 後で遊んでもらおう!」

 フィーはますます金色に輝く。

 掃除を続けながら、アサギは思う。

 ここで新しい人生が始まる。

 過去を捨てるわけじゃない。

 でも、新しい道を歩む。

 そう決めたのだ。

 夕方になり、掃除が一段落した。

 広間は見違えるように綺麗になり、テーブルと椅子も整った。

「疲れたね!」

 フィーは少し青みがかった光になる。

「大丈夫?」

「うん。ちょっと疲れただけ。すぐ回復するよ」

 アサギは紅茶を淹れる。

「休憩しましょう」

「やった!」

 二人は窓際に座り、紅茶を飲む。

 夕日が遺跡を照らし、石の壁が金色に輝く。

「綺麗ね......」

「うん。ボク、この時間が一番好き」

 フィーはカップを持ちながら、外を見つめる。

「昔はね、この時間になると、みんなが集まって紅茶を飲んだんだ」

「そうなの?」

「うん。一日の終わりに、みんなで話したり、笑ったり。楽しかったなあ」

 フィーの光が、少しだけ青くなる。

「でも、もういない」

 アサギはフィーの頭を優しく撫でる。

「これからは、また人が集まるわ。この遺跡に、笑い声が戻ってくる」

 フィーは顔を上げる。

「本当?」

「ええ。約束するわ」

 フィーは嬉しそうに金色に輝く。

「ありがとう、アサギ!」

 そう言って、アサギの肩に飛び乗る。

 二人は夕日を眺めながら、紅茶を飲む。

 静かで、穏やかな時間。

 でも——その静けさは、長くは続かなかった。

 ふと、アサギは窓の外に目をやる。

 遠くの森の中——人影が見えた気がした。

 フィーも気づいたのか、光が青く変わる。

「誰か......来る」

「アサギ、知ってる人?」

「......分からないわ。でも——」

 アサギは窓を閉める。

「追手かもしれない」

 フィーの光が、さらに青く、そして少しだけ赤みを帯びる。

「大丈夫。ボクが守るから」

「ありがとう、フィー」

 アサギは微笑むが、心の中では不安が募る。

 もう見つかったのだろうか。

 それとも——。

 ヴェルナーの顔が脳裏に浮かぶ。

「職務だ」と言った彼の言葉。

 彼は必ず追ってくる。

 それは分かっていた。

 でも——今はまだ、少しだけ時間が欲しい。

 この場所で、自分の居場所を作る時間が。




 夜が来た。

 アサギは石のベンチに横たわる。本来なら硬くて冷たいはずなのに、不思議と心地よい。

 フィーは隣で小さく光っている。優しい金色。

「おやすみ、アサギ」

「おやすみ、フィー」

 目を閉じると、すぐに眠りが訪れた。

 そして——夢を見た。

 暖炉の前。幼いアサギと、母。

『お母様、紅茶美味しい』

『そう? よかったわ』

 母は微笑む。でも、その笑顔の奥に悲しみが潜んでいる。

『アサギ、いつか大きくなったら——』

『うん?』

『自由に生きなさい。誰にも縛られず、自分の道を歩きなさい』

『でも、お母様は?』

『私は......いつもあなたと一緒よ』

 母はアサギを抱きしめる。

 そして——場面が変わる。

 城の庭。幼いアサギが一人で座っている。

 そこに、少年が現れた。

 銀髪に青い瞳。まだ幼いが、凛とした雰囲気を纏っている。

『あなたが、アサギ様?』

『......はい』

『僕はヴェルナー。今日から、あなたの護衛を務めます』

 少年は片膝をつき、頭を下げる。

『守ります、姫様』

 幼いアサギは戸惑う。

『姫様......?』

『いえ、失礼しました。アサギ様』

 ヴェルナーは顔を上げる。その瞳は、温かかった。

『これから、よろしくお願いします』

 幼いアサギは頷く。

 でも——心のどこかで疑問が湧く。

 なぜ、「姫様」と呼んだのだろう。

 場面が再び変わる。

 今度は、もっと後の記憶。

 10代のアサギと、成長したヴェルナー。

 城の廊下で、二人は並んで歩いている。

『ヴェルナー』

『はい』

『あなたは......なぜ私の護衛を?』

 ヴェルナーは少し驚いた表情を見せる。

『命じられたからです』

『それだけ?』

『......それだけです』

 でも、その言葉には何か隠されているような気がした。

 アサギは聞く。

『私のこと、知っているの? 本当のことを』

 ヴェルナーは立ち止まる。

 長い沈黙。

 そして——。

『知っています』

『やはり......』

『でも、それは口にできません。それが、私の職務です』

 ヴェルナーは再び歩き始める。

 アサギは彼の背中を見つめる。

 夢の中で、アサギは呟く。

「あなたまで、嘘をつくの......?」

 その時——夢が終わった。

 アサギはゆっくりと目を開ける。

 朝の光が、石の隙間から差し込んでいる。

 フィーはまだ眠っているのか、静かに金色の光を放っている。

「いい夢見た?」

 突然、フィーが声をかけてきた。

 アサギは微笑む。

「......忘れてしまいたい夢だったわ」

「そっか。でも、忘れちゃダメだよ」

「なぜ?」

「だって、それもアサギの一部だから」

 フィーは飛び上がり、アサギの肩に乗る。

「辛い記憶も、悲しい記憶も、全部アサギを作ってるの。だから、忘れちゃダメ」

 アサギは頷く。

「......そうね。ありがとう、フィー」

「どういたしまして! じゃあ、朝ごはん作ろう!」

 二人はキッチンへ向かう。

 窓の外では、ミストが草を食んでいる。朝露に濡れた月毛が、朝日を受けてきらきらと輝いている。

 平和な光景。

 でも——アサギの表情には、わずかな影がある。

 窓の外を見つめながら、小さく呟く。

「追手は必ず来る。それまでに——」

 フィーが振り返る。

「何か言った?」

「いいえ、何でもないわ」

 アサギは微笑む。

 でも、心の中では決意を固めていた。

 ここを、本当の居場所にする。

 そのためには——準備が必要だ。

 追手が来る前に。

 ヴェルナーが来る前に。

 カフェを開き、この場所を守る。

 それが、今の私にできること。

 そう思いながら、アサギは紅茶を淹れ始めた。

 金色の液体がカップに注がれる。

 湯気が立ち上り、甘い香りが部屋に広がる。

 新しい一日の始まり。

 そして——新しい人生の、本当の始まり。



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