ンひウノ

バスが走り始めて5時間経ち、目的地に近づいたようだ。

白樺の木々に囲まれ、鬱蒼うっそうとした林を抜けていく。


山の稜線りょうせんうようにして、きりい上がる。


車道が途切れる寸前の崖際に、【無間楼むげんろう】はあった。


外壁はすすけ、かつてのクリーム色は灰に染まり

窓枠の金箔きんぱくは剥げ落ちて、まるで古い義歯ぎしのように黒ずんでいる。


かなり古い建物で、昭和初期のホテルの思わせる造りだった。


「―――ました、お忘れ物のないよう―――」


アナウンスが流れ続々とバスを降りていく。

私は降り際に【西村まゆ】の免許証を握りしめ

彼女のことを添乗員てんじょういんに聞こうとした。


だが、間近で見て私はゾッとした。


女性の添乗員てんじょういん眼窩がんか

まるでクレヨンで塗りつぶしたような黒い空間が広がっていたのだ。


逃げるように私はバスを降りた。


おそらく、長旅で疲れていたのだろう。

そう思い込むことにした。


去り際に添乗員てんじょういんが何かをつぶやいているような気がした。


...

......

.........


ホテルの玄関の回転ドアは磨き抜かれ、ガラス越しに覗くロビーは

燭台しょくだい型のシャンデリアがほのかに灯り、絨毯じゅうたんの深紅が血の色を思わせる。


大広間へ続く廊下は、壁一面に鏡が張られ、歩くたびに無数の自分が揺らぐ。


鏡の縁取りは薔薇ばらの彫刻で、つる草が絡まる意匠はまるで客をみ込むようにい回っている。


空気は湿り、カビのような匂いがした。

老舗というだけある。


客室へ向かう道すがら昔家族で見た映画を思い出していた。

その映画では、冬の積雪の季節に山奥のホテルの管理をするというものだった。

3人家族で小説家の父親が発狂するという内容だったが―――


廊下の絨毯は足音をみ込み、一〇八号室の扉が目の前にあった。

私が泊る部屋。


真鍮しんちゅうの鍵を慎重に差し込み、蝶番ちょうつがいきしむ音だけが先に響く。


部屋の中は、薄闇に包まれていた。

その光景に全身の毛が逆立つような感覚をおぼえた。


窓は厚いカーテンで閉ざされ、室内灯はオレンジの豆電球ひとつ。

空気は甘ったるく、どこかでミルクの匂いがする。


だが異様なのはそれだけではない。

胸の奥が、ざわざわと波立つ。


布団は二段ベッド。


上の段には、赤と青のスーパーヒーローが大きくプリントされたカバー。

マントを翻すその姿は、色せ、目玉の部分だけが剥げて、白い綿がのぞいている。下の段は、ピンクのプリンセス。フリルが波打ち、枕には小さなティアラの刺繍ししゅう


どちらも、子供の手で何度も抱きしめられた跡がある。

シーツの端は、よだれの染みが黄ばじみ、乾いた涙の跡のように見える。


テーブルには、プラスチックの子供用カトラリー。


スプーンはアニメのロボットの顔つきで、フォークはウサギの耳がついている。

皿はメラミン製、縁にヒビが入り、そこから赤い絵の具のようなものがにじんでいる。


コップは二つ。

片方は「パパ」、もう片方は「ママ」と書かれたシールが貼られ

文字は子供の落書きのようにゆがんでいる。


壁には、大きな額縁がくぶち

写真は白黒で、昭和のものだろう。


家族五人。


父親は背広、母親はエプロン、間に三人の子供。


長男は眼鏡、次男は前歯が欠け、長女はリボンが大きすぎる。

みんな笑っている。


だが、写真の表面に無数の指紋が付き、顔の部分だけがり切れて、輪郭りんかくがぼやけている。

まるで、何度も何度もでられたように。


私は廊下へ飛び出し、扉を背後で叩きつけるように閉めた。


もはや胸のざわめきは激しい鼓動こどうへと変わっていた。

けたたましいサイレンで警告をうながすかのように。


こんな部屋はあきらかに間違っている。

私はスマホを取り出すが、圏外になっている。


勘弁かんべんしてくれ……」


周囲を見渡すが、ほかの客も従業員の気配もない。

ひとまず荷物だけ持ち出そうと再び部屋の中に入った私は仰天ぎょうてんした。


――部屋は、ごくふつうの洋室ホテルだった。


さっきの子供部屋は、どこにもない。


スーパーヒーローの布団も、アニメのスプーンも、家族写真も。

代わりに、壁に掛けられた油絵。

昭和の貴婦人、微笑んでいるが、瞳の部分だけが抉れて、黒い穴が開いている。

デスクには、革張りの文机。


いったいなにが起きているんだ。

ストレスで幻覚を―――みたのか?


長旅の疲れもあった私は倒れこむようにベッドに身を任せた。


人間の網膜は、暗順応状態でコントラストを過剰に強調する。

子供部屋のイメージは、幼少期の記憶――

いや、最近見た映画のワンシーンかもしれない。


だが確かな事実もある。


私は手の中で微笑む運転免許証の【西村まゆ】を見る。

彼女はここになんらかの関わりをもっていたはずだと。


そしていつのまにか私は深い眠りへと落ちていった。


















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る