寝室のドアを開けたら恋人と尊敬する先輩がエッチしていた。全てを失った俺は知的な隣人の助けを得て法と論理で奴らを社会的に抹殺する。
ネムノキ
第1話
柔らかな朝日がレースのカーテン越しにリビングを琥珀色に染めていた。
キッチンから漂うのは、淹れたてのコーヒーの香ばしい匂いと、トースターがパンの焼き上がりを告げる軽快な音。
それは西浦侑作(にしうらゆうさく)にとって、幸福そのものの香りだった。
「侑作、おはよう。パン焼けたよ」
キッチンに立つ恋人、百鬼愛奈(なきりあいな)が振り返る。
ゆるくウェーブのかかった髪が朝日に透けて、きらきらと輝いていた。流行りのオーバーサイズのルームウェアに包まれた華奢な身体。その全てが侑作の心を穏やかな満足感で満たしていた。
「おはよう、愛奈。ありがとう」
テーブルにつきながら、侑作は彼女が運んできたプレートを受け取る。こんがりと焼かれたトーストの上には、とろりと溶けたチーズ。完璧な半熟の目玉焼きと彩りの良いミニトマトが添えられている。
「昨日の残りのポトフ、温め直したけど味どうかな?」
「ん、うまい。最高だよ」
熱いスープを一口啜り、侑作は心からの賛辞を贈る。
「よかった」
愛奈は嬉しそうに微笑み、自分の席についた。
世田谷区桜新町。都心へのアクセスも良いこの街で、二人だけの静かな城を築いて一年が経つ。二年前に付き合い始め、侑作の猛アタックの末に始まった同棲生活は、彼が夢に見ていた以上の幸福に満ちていた。
アパレル店員として働く愛奈はいつも明るく、侑作の仕事を心から応援してくれている。
ITベンチャーの営業として働く侑作は、時に厳しいノルマや複雑な人間関係に疲弊することもあったが、この部屋に帰り、愛奈の笑顔を見れば全ての疲れが霧散していくようだった。
テーブルの上には一冊の旅行パンフレットが広げられている。来月の連休に計画している沖縄旅行のものだ。
「ねえ、侑作。やっぱりこっちのホテルも良くない? プライベートビーチがあるんだって」
パンフレットを指さす愛奈の横顔は、期待に満ちて輝いている。その爪には、彼女の好きなブランドの新作だという淡いピンクのネイルが施されていた。
「本当だ。いいな、ここ。でも、予算は大丈夫か?」
「んー……ちょっと頑張れば、いけるかも?」
悪戯っぽく舌を出す愛奈に侑作は苦笑する。
「まあ、今やってるプロジェクトが成功すれば臨時ボーナスも出るはずだからな。頑張るよ」
「ほんと!? じゃあ、侑作の頑張りに期待しちゃおっかな!」
楽しそうに声を弾ませる愛奈。その笑顔を守るためならどんなことでもできる。侑作は心の底からそう思っていた。
穏やかで、満ち足りた朝。
この完璧な日常が永遠に続いていく。
彼はそのことを、微塵も疑っていなかった。
◇
桜新町の静けさとは対照的に、侑作が勤めるITベンチャー企業がある渋谷は、野心と情報、そして無数の人々が発する熱気で常に渦巻いている。
オフィスフロアにはキーボードを叩く乾いた音と、時折響く内線電話のコール音だけが満ちていた。誰もがモニターに鋭い視線を注ぎ、目に見えない情報という敵と戦っている。
侑作もまた、その戦場の只中にいた。
彼のキャリアの命運を握る大規模な業務システム刷新プロジェクト。数ヶ月にわたりクライアントと地道な交渉を重ね、社内のエンジニアたちと仕様を詰めてきたこの案件は、いよいよ明日の最終プレゼンを残すのみとなっていた。
(よし、このデータならクライアントの懸念点も払拭できるはずだ……)
プレゼン資料の最終チェックに没頭する侑作の背後から、不意に爽やかな声がかけられた。
「よう、侑作。精が出るな」
振り返ると、そこには月島学人(つきしまがくと)が立っていた。
有名ブランドのスーツを完璧に着こなし、モデルのような長身を少し屈めて侑作のモニターを覗き込んでいる。
社内でもエース格のコンサルタントとして知られる彼は、二つ年上の先輩であり、侑作が最も信頼し、目標としている存在でもあった。
「月島さん。お疲れ様です」
「いい資料じゃないか。クライアントの課題を的確に捉えてる。ただ……」
月島は顎に手を当て、思案するような仕草を見せた。
「ここの市場予測データ、もう少しインパクトのある見せ方ができるかもしれないな。例えば、このグラフをインフォグラフィックに差し替えて将来的な成長率を視覚的に強調するんだ。そうすれば役員連中の印象も格段に良くなる」
それは侑作が一人では思い至らなかった視点だった。彼の的確なアドバイスはいつも凝り固まった侑作の思考を解きほぐしてくれる。
「なるほど……! 確かに、その方が説得力が増しますね。ありがとうございます、月島さん!」
「気にするなよ。このプロジェクトは会社にとっても重要なんだ。お前一人の手柄にさせるわけにはいかないからな」
そう言って月島はニッと人の好い笑みを浮かべた。そのカリスマ性と後輩への気さくな態度が、彼を社内の人気者たらしめている理由だった。侑作もまた、彼のそんな人柄に心酔している一人だった。
「本当に助かります。俺、月島さんみたいにスマートに仕事ができるようになりたいです」
「お前は真面目すぎるのが玉に瑕だが、その誠実さはお前の武器だよ。自信持て」
ポン、と軽く肩を叩かれる。その力強い感触に、侑作は体の奥から力が湧いてくるのを感じた。
尊敬できる先輩。切磋琢磨できる同僚。そして、家に帰れば待っていてくれる最愛の恋人。
自分はなんて恵まれているのだろうか。
月島の笑顔の裏に潜む底なしの闇に、この時の侑作は気づくはずもなかった。
◇
窓の外が深い藍色に染まり、オフィスの窓ガラスに渋谷の煌びやかなネオンが映り込む頃、侑作はようやく作業を終えた。
月島のアドバイスを取り入れた資料は我ながら完璧な出来栄えだった。これなら明日のプレゼンは必ず成功する。心地よい達成感と確かな手応えが胸を満たしていた。
「お先に失礼します」
まだ残っている数人の同僚に声をかけ、侑作はオフィスを出る。
帰路につく人々でごった返す渋谷のスクランブル交差点を抜け、駅へと向かう。
今日の自分へのご褒美と、プレゼン成功の暁には愛奈へのプレゼントも奮発しよう。そんなことを考えながら歩いていると、駅前のデパートのショーウィンドウが目に留まった。
ガラスケースの中に、宝石のように並べられたケーキ。その中に愛奈が一番好きなモンブランを見つける。栗のクリームが美しく絞られ、頂上には艶やかな渋皮煮が鎮座している。
(今日は頑張ったし、ささやかなお祝いにしよう)
迷わず店に入り、モンブランを一つだけ買う。綺麗な化粧箱に入れてもらい、崩さないように慎重に手に提げた。
電車に揺られながら、侑作は窓の外を流れていく夜景をぼんやりと眺めていた。
頭に浮かぶのは愛奈の喜ぶ顔だ。きっと、「わー、ありがとう!」と満面の笑みで抱きついてくるに違いない。
彼女の笑顔が、侑作にとって何よりの報酬だった。
沖縄旅行では彼女が欲しがっていたブランドのバッグをサプライズでプレゼントしようか。プロジェクトが成功すれば、それくらいの余裕はできるはずだ。
彼女との未来。それはどこまでも明るく、輝かしいものに思えた。
愛奈と出会えたこと、そして彼女と共に歩むこれからの人生。その全てが、侑作の誇りだった。
桜新町の駅を降りると、都会の喧騒が嘘のように穏やかで静かな空気が体を包み込む。昼間の戦場から自分だけの聖域へと帰ってきた安堵感。
愛する人が待つ我が家へ。侑作の足取りは自然と軽やかになっていた。
◇
アパートの二階、見慣れた「201」号室のドアの前に立つ。
鍵を差し込み、ゆっくりと回した。
「ただいま」
いつものように声をかける。
だが、いつも返ってくるはずの「おかえり」という明るい声は聞こえなかった。
シン、と静まり返った部屋。
リビングの明かりは消えていて、玄関から差し込む廊下の光だけが室内の家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
(もう寝たのかな……? 今日は早番だって言ってたし、疲れてるのかもしれないな)
侑作は物音を立てないように、そっと靴を脱いだ。
その時、ふと、全身の血の気が引くような違和感を覚えた。
いつもは綺麗に揃えられている玄関の靴の中に、見慣れない一足の革靴が混じっていた。鈍い光を放つ上質なレザー。明らかに高価なイタリア製のビジネスシューズが、まるでこの家の主であるかのように鎮座している。
それは侑作のものでもなければ、愛奈の友人たちの誰かのものとも思えなかった。
(……誰か、来てるのか?)
胸に氷の棘が突き刺さったような、ちりりとした痛みが走る。
リビングを抜け、廊下を進む。
心臓が嫌な音を立てて脈打っていた。
寝室のドアの隙間から、ぼんやりとした光が漏れているのが見えた。間接照明のオレンジ色の、温かい光だ。
同時に、侑作の耳は微かな音を捉えていた。
くぐもった、熱い吐息。時折混じる、粘質な水音。そしてベッドがきしむ、規則的なリズム。
それは、侑作がよく知っている音だった。
愛奈と二人だけでこの聖域にいる時にだけ交わされる、愛の音。
全身の血が急速に凍りついていく感覚。
心臓が氷の塊に握り潰されたかのように軋む。
まさか。
そんなはずがない。
何かの間違いだ。
震える手で、寝室のドアノブに触れる。冷たい金属の感触が、悪夢のような現実を突きつけてくる。
ゆっくりと、ほんの少しだけドアを開けた。
隙間から覗き込んだ光景に、侑作の世界は、音もなく、しかし決定的に崩壊した。
視界がぐにゃりと歪み、呼吸が喉の奥で詰まる。
オレンジ色の間接照明に照らされた乱れたベッドの上。
そこには二つの裸の影が、獣のように絡み合っていた。
愛奈が選んだシーツを強く握りしめ、陶然とした表情で喘ぎ声を漏らしているのは紛れもなく、侑作が愛してやまない恋人、百鬼愛奈だった。
その瞳は潤み、快楽に蕩けきっている。だがその奥に、一瞬、この場所で彼ではない男に抱かれていることへの罪悪感のような影がよぎった。しかしそれも束の間、男の激しい動きに呼応するように、すぐに抗いがたい愉悦の波に飲み込まれていく。
そして。
その愛奈の白い身体に覆いかぶさり、支配者のように激しく腰を打ち付けている男の背中。
鍛え上げられた、広い背中。
侑作が目標として、憧れの対象としていつも見ていたその背中を、間違うはずがなかった。
男がふと、愛奈を見下ろす。その瞳には、侑作への明確な優越感と、この「愛の巣」を蹂躙する愉悦が色濃く浮かんでいた。
「……あ……つきしまさん……がくと、さん……もっと、強く……っ」
愛奈の口から漏れたのは、甘く、どこか縋り付くような蕩けた声。
その声が、男の名前を呼んだ。
月島、学人。
侑作の思考が、完全に停止した。
頭の中が真っ白になり、音が消え、色が消え、感覚の全てが麻痺していく。
なぜ。どうして。何が起きている……?
愛奈と一緒に組み立てた本棚。旅行先で買った小さな置物。この部屋にある全てが、自分たちの愛の証だったはずの全てが、今はただ二人を照らし出す穢れた舞台装置にしか見えなかった。
彼の視界に、快楽に歪む愛奈の顔と、その奥に見えた一瞬の『罪悪感』、そして月島学人の、全てを支配するような『優越』が焼き付いた。
そして侑作は、それが単なる裏切りではないことを、本能的に、しかし確信的に悟った。
侑作の震える手から、意思とは無関係に力が抜けていく。
カサリ、と乾いた音を立てて、彼が愛奈の未来を、ささやかな幸福を願って買ってきたモンブランの箱が床に滑り落ちた。
グシャリ。
鈍く、湿った音が静寂を破る。
箱は無残に潰れ、中から歪んだクリームの塊が醜くはみ出す。
それはまるで、侑作が信じていた完璧な日常と、彼自身の心が、容赦なく踏み潰された音のようだった。
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