静寂の贈り物

Isuka(交嘴)

第1話 白い廊下の朝

朝の光が、磨かれた床を静かに滑っていった。

白い壁には絵もなく、ただ時計の音だけが薄く響く。

介護施設の廊下には、まだ人の匂いが染みついていない。

消毒液の冷たい香りが、昨日の疲れをなぞるように漂っていた。


佐伯海斗はモップを押しながら、ゆっくりと廊下を進む。

夜勤明けの看護師たちの笑い声が、休憩室の奥でくぐもって聞こえた。


「中原さん、また言ってたのよ。旦那さんが迎えに来るって」

「もう毎日だね。あの人、日付が止まってるんじゃない?」


笑いながら通り過ぎる彼女たちを、海斗は横目に見た。

彼女たちは悪気がない。ただ、仕事の流れの中で心を守っているだけだ。

でも、海斗の胸の奥には、微かな引っかかりがあった。


――止まっているのは、時間じゃない。

 きっと“何かを待つ気持ち”のほうだ。


そう思いながら、掃除を終えた手でドアをノックした。

静かに「どうぞ」と返る声。

扉を開けると、窓辺に光を集めるように、老婦人が座っていた。


白髪をきちんと結い上げ、薄紫のセーターを身にまとったその姿は、

まるで季節の外から来た人のようだった。

彼女――中原 静は、膝の上の毛糸玉を指で転がしながら微笑む。


「おはようございます、海斗さん。今日はいいお天気ですねぇ」

「はい、春らしい陽射しです」

「きっと主人も気持ちよく出てこられますよ。あの人、晴れが好きでしたから」


海斗は頷いた。

「そうですね。お迎え日和です。」


静は目を細め、編み針の音を止めた。

窓の外には小さな桜の枝。まだ蕾が固く閉じている。

それでも、彼女の世界ではもう満開のようだった。


その光景を前にして、海斗は胸のどこかが温かくなるのを感じた。

嘘でも現実でもないその会話が、朝の光と一緒に部屋を満たしていく。



昼休み、休憩室のテレビではワイドショーが流れていた。

同僚の三枝沙織が紙コップのコーヒーを置きながら言った。


「佐伯くん、中原さんの話、聞いてるのね」

「ええ。少しだけ。」

「優しいのね。でもね、現実を伝えることも大事よ。

 あの人、旦那さんもう三十年前に亡くなってるのよ。」


海斗はうつむいたまま答えなかった。

テレビの中で誰かが笑っている。音は軽いのに、耳に残らない。

彼の中で、沙織の言葉が静かに重く沈んでいった。


「知らないままでいるのは、可哀想じゃない?」

その問いに、海斗は言葉を失う。

心の奥に古い記憶が浮かんだ。

病院のベッド、白いシーツ、点滴の音。

母の手を握っていたあの日、自分は“真実”を伝えてしまった。

「もう長くないらしいよ」――

それを聞いた母が泣いた顔を、いまでも夢に見る。


“正しいことを言うのが、いつも優しさとは限らない。”


その夜、彼はノートを開いた。

“優しさの定義”と書き、ペンを止めた。

窓の外で風が鳴り、街灯が揺れている。

何も書けずにページを閉じた。



翌朝。

静の部屋に入ると、机の上に一枚の写真が立てかけられていた。

白黒の写真。軍服を着た若い男が、やや照れたように笑っている。

傍に置かれた古い時計が、秒針を止めたまま、静の手の届く場所にあった。


「いい写真ですね」

「ええ、主人ですよ。真面目で、不器用でね。

 きっと今日も、どこかで道に迷ってるんです。」


海斗は思わず笑った。

「それなら、ここがわかりやすいようにしておきましょうか。」

そう言って、カーテンを少しだけ開けた。

春の光が差し込み、床に四角い模様を描いた。


「まぁ、ありがとう。これなら見つけてくれますね。」


静は嬉しそうに頬を染め、窓の外に目をやった。

光の粒が白い髪に反射し、まるで淡い花びらのように見えた。

その瞬間、海斗は思った。

この人の“待つ”という行為は、もう祈りに近いのかもしれないと。



勤務を終え、帰り際の廊下で沙織に声をかけられた。

「今日も中原さんのところ、長かったね。」

「はい。少しお話を。」

「……あの人、ほんとに信じてるのね。旦那さんが来るって。」

「ええ。でも、それで落ち着いてるなら、それでいいんじゃないですか。」


沙織は眉を寄せた。

「それって、嘘を守るってことよ?」

「そうですね。」

「罪悪感、ないの?」

「ありません。少なくとも、あの人が笑ってるなら。」


沙織は何かを言いかけて、黙った。

廊下の時計がカチリと音を立て、秒針が動いた。


海斗はその音を聞きながら、静かに廊下を歩いた。

彼の胸の中で、なにかが小さく動いた。

それは、遠い昔に失った“やさしさの形”の輪郭だった。

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