第15話 アンステイブルガール
「え」
「鈴川さんを引き上げてから救急車が到着するまでの間ずっと、折れた脚を見て、泣いてたんだよ?」
「え、あ」
うそ。
鈴川が消え入りそうな声で呟く。
残念ながら、本当だった。意味がないから、伝えていない話でもあった。
感じたことのない激痛と、瞬間的に悟った自分にとってのひとつの終わり。いろんな感情がぐちゃぐちゃになって、涙が止まらなくなった。
まさか、その様子を見ていた人がいたなんて。
「鈴川さん、おかしいよ」
もう、なにも言わない。蓄えていた言葉のすべてが死んでしまったみたいに、鈴川はくちびるをかすかに震わせるだけ。
「一体どんな気持ちで、御堂くんと一緒にいるの?」
それ以上はいけない。飛び出していきたかったけれど、ふたりのやり取りをそんな形で止めるのは野暮にも思われた。
「鈴川さんの顔を見るたび、御堂くんは自分の人生が壊れちゃったこと思い出すんだよ?」
悲しいかな、焚きつけたのは俺なのだ。
倉木さんは俺のことを信じたいと言った。
俺は倉木さんに君は君のままでいいと言った。
臆病で不器用なままでいい。少しずつ、人を信用できるようになっていけばいい。
そうしたらいつか、失礼なやつに言い返せるようになるはずだって。
そのいつかが、今だった。
望む未来が、もっとも望ましくない形で実現した。ただそれだけの結末。
「御堂くんをこれ以上苦しませないで」
倉木さんは片手を振り上げて、しばらく静止した。その行く先はわかっているから、鈴川は微動だにせず、的としての役割を果たそうとしている。
だけど、そうなにもかもうまくはいかない。結局倉木さんの根っこは優しさは、怒りの対象にでさえ暴力をふるったりすることを許せないようだった。
「私の友だちなんだから」
言って、乱暴に扉を開けて走り去っていく。慣れない感情、慣れない行い、本人も相当混乱していたようで、すぐ近くにいた俺に気づいた様子はなかった。
教室の中で、鈴川はずっと立ち尽くしている。窓の向こうを見ながら、ただ黙って。
けれど何分かすると、思い立ったように振り返って声を出した。
「いい加減入ってきたら?」
「……わかってたのかよ」
「なんとなく、いるかなーって気がしてたんだよね」
強い勘の前ではなす術なしだ。
おずおずと近づいて、適当な机に腰かける。
「どんちゃんが戸締りしっかり確認するのって、自分が覗き見することの裏返しだったわけだ」
「ちげーよ。初犯だ初犯。余罪なし」
軽口を叩きながら鈴川が俺と同じようにして、机にお尻をのせた。しかし身長が足らなくて、脚が少し浮く。その様子をじろじろ見ているのがバレた。
「やんなっちゃうね。背は伸びないくせに、胸ばっかりおっきくなって」
「ここで適当に相槌打ったら俺がとんでもないドスケベ野郎になったりしない?」
「するかも」
「じゃあ無視しとく」
女性的な、丸みを帯びたシルエット。鈴川はどこを触ってもやわらかそうな体を、ぐいっと後ろに大きく反った。
「……意外と泣き虫だったんだね」
「お前に言われてもなあ」
どっちもどっちだ。特に、表には出さないところが。
別に、さっきのやり取りがあったからといって、即座に俺たちが険悪になるようなことはない。
というより、その手の葛藤はとっくの昔に終わっているといった方がいい。
俺はもう、鈴川の顔を見て、自分の未来に立ち込めた暗雲を思うようなことはない。憎悪に燃えたり、悲しみに震えたりすることもない。
けれど。
「倉木ちゃんさ」
それ以上のどうしようもない感情に苛まれることは、未だにある。
恐怖を感じつつ、鈴川の表情をうかがった。
そこに浮かんでいるのは――今この瞬間においてあまりにも場違いな、満面の笑み。
「めっちゃいい子だね!」
「お前なあ……」
言葉とは裏腹に、真冬の風を浴びたように細かく震える鈴川。
プールに入ってびしょ濡れになってもぴんぴんしていた頑丈な体が、橋から飛び降りて川に流されても小さな打撲だけで生還した屈強な体が、今はただ、言葉の圧だけで震えている。
そっと触れた手は、冬場の金属製品みたいに冷え切っていて、なおのこと痛々しかった。
「私のこと、ちゃんと責めてくれるもんね!」
倉木さんの言う通り、たしかに鈴川はおかしかった。どんな気持ちで一緒にいるのか問いただしたくなるのも、無理からぬことだった。
だけどそれはおふざけでもなんでもない。もともとの気質というわけでもない。
因果応報は、立場が弱い側の願いだ。かつて俺はそんな風に考えたことがあった。
強い側と弱い側。
加害者と被害者。
鈴川瑠璃羽と御堂修麿。
厳然と存在する、絶対の構図。
鈴川はずっと罰を欲している。なのに、よりにもよって願う立場であるはずの俺が、そんなのはどうでもいいと思ってしまっている。
よって報いは訪れない。システムの歯車が正しく回ることはない。
裁かれることのないまま、永遠に宙ぶらりんになることが決まってしまった鈴川瑠璃羽。
その結果として。
「よかった~。……ようやく、ようやくだよ」
鈴川は、おかしくなってしまった。
他人の人生を壊した重責に真正面から向き合った結果、自分自身も壊れてしまった女の子。
アンステイブルガール。
身から出た錆で、あまりにも自業自得で、誰の助けも期待できない、八方ふさがりの存在。
「ダメだよ御堂。……御堂は、怒んなきゃダメなんだよ」
冷えた手を、こちらの両手で包み込む。
その程度の思いやりにすら、鈴川は強い怯えを示してしまう。
去年、チンピラに殴られた痣を初めて見せたときの反応を思い出す。いつもの軽くておちゃらけた様子から想像できないくらい狼狽した鈴川は、パニック一歩手前みたいな状態で俺の患部を撫で続けた。目に涙を浮かべながら、痛々しいくらい必死に。
俺がダメージを負う。それがとてつもないトラウマになっているのはわかりきっていた。
その記憶が、この前倉木さんに助け舟を出すべきかどうか、俺を迷わせた。
鈴川が俺と一緒にいるという倉木さんの解釈は、一部不正解。
正しくは。
壊れてしまった鈴川を、俺の方が放っておけないのだ。
結局、約束の時間には間に合わなかった。
一時間以上遅れて店に行くと、倉木さんは遅刻の理由をたずねることも怒ることもなく、「きてくれてよかった。事故にでもあってたらどうしようかと思って」と笑った。いつくるかわかったものじゃないのに、湯気の立つ熱いコーヒーまで予め準備されていた。
しかしながら、こちらはまったくもって笑えなかった。
俺にだって個人的な考えや思うところというものが存在する。
もしもお金で俺を雇うのだという提案が倉木さん以外の相手からなされていたら、たぶんその場で断っていた。グレーだし、危なっかしいし、なによりも意味がない。
けれど。
あのときの倉木さんが目にたたえていた薄い光が、ぜんぜん上手に作れていない下手くそな表情が、あまりにも誰かさんを思い起こさせるものだったから。
今回こそは同じ轍を踏んでやるものかって、そう考えて。
なのに――。
「今日はただゆっくりおしゃべりしたいなと思って呼んだんだ。金曜日の夕方から夜にかけてって、一番わくわくするぜいたくな時間でしょ?」
「ああ、わかるよ」
にこにこしながらメニュー表をぱらぱらめくっていく倉木さん。
いかにも歳相応なほほえましいふるまい。
そしてその傍らにある、俺も倉木さんも触れることのない、空になったいくつものコーヒーカップ。
きっと俺用に頼んで、冷めそうになったら自分で飲んで……という流れを何度も繰り返した形跡。
疑惑。
思考。
確信。
倉木さんも、壊れた。
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