第4章 視線の中で

 夜は不自然なほど静かだった。

 風の音も、虫の声もない。

 ただ信号機だけが淡い赤を繰り返し、アスファルトに血のような光を落としている。


 加藤真はハンドルを握りしめたまま、車を停めた。

 場所は――桜代中央交差点。

 ラジオも切っているのに、どこからか声が聞こえる。


 > 「右見て。左見て。……見えてる?」


 後部座席のミラーに、何かが映った。

 顔のない乗客。

 まるで布で覆われたように白く、首だけがこちらを向いている。

 “それ”が笑った気がした。


 「やめろ……やめてくれ……」

 加藤は声にならない叫びを吐いた。

 ドアを開け、外に出る。


 その瞬間、空気が凍る。

 交差点の中央に、五人の人影が立っていた。


 高校生の結衣。

 引きこもりの長谷部。

 刑事の高橋。

 そして、白衣の井上沙耶。

 最後に、自分――加藤真。


 みんな無言だった。

 互いに見覚えがあるわけではないのに、どこかで“知っている”と感じた。

 その感覚は、夢の中で何度も会っていたような奇妙な既視感。


「ここ……夢の中、だよね?」

 結衣がか細く呟く。

 長谷部は首を横に振った。

「違う。ここ、現実だ。俺たちはもう……呼ばれた」


 “呼ばれた”――その言葉に、誰もが息を呑む。



 突如、街灯が一斉に消えた。

 真っ暗な闇の中、信号だけが赤く瞬いている。

 その光の中で、彼らの影がアスファルトに長く伸びた。


 しかし、影は五つではなかった。

 六つ目が、誰のものとも分からず、ゆっくりと動き出している。


 加藤が後ろを振り向く。

 そこには、もう一人の“自分”が立っていた。

 無表情のまま、同じ動作を繰り返す。

 まるで鏡を見ているように。


 「……なんなんだよ、これ……!」

 叫びながら走り出したが、足元がぬかるむ。

 道路が――人の顔で埋め尽くされていた。

 目を閉じた無数の顔がアスファルトから浮かび上がり、やがて一斉に目を開く。


 その無数の瞳が、彼ら五人を見上げていた。



「見られてる……」

 結衣が震える声で言う。

 高橋が拳銃を構えた。

「後ろへ下がれ!」

 引き金を引くが、銃声は鳴らない。

 代わりに耳鳴りが響き、世界がわずかに歪む。


 目を開けると、全員の立ち位置が変わっていた。

 加藤がいた場所に結衣が、

 結衣がいた場所に長谷部が、

 まるで“視点”ごと入れ替わっているようだった。


 「……やっぱりな」長谷部が呟く。

 「“見える者は、見られる者になる”。この街そのものが、俺たちの目を使ってるんだ」


 その瞬間、空が裂けた。

 ビルの壁面や窓ガラスの一つ一つに、巨大な“瞳”が浮かび上がる。

 街全体が生きている――いや、“視ている”。


 井上が泣き出した。

 「嫌……もう見たくない……!」

 だが目を閉じても、まぶたの裏に瞳が焼きついて離れない。


 加藤は頭を抱え、呻いた。

 「どうすりゃいいんだ……! 目を閉じても見える、耳を塞いでも聞こえる!」


 すると、誰かの声がした。

 > 「見ることをやめれば、消えるんだよ」


 振り向くと、そこに立っていたのは――香澄。

 結衣の親友。

 死んだはずの。


 彼女は微笑み、結衣の頬に触れた。

 「結衣、あなたもこっちに来て」

 その手が冷たい。氷のように。


 結衣の視界が滲む。

 香澄の背後で、街の“目”が次々と閉じていく。

 音も、色も、すべてが沈んでいく。


 そのとき、長谷部の叫びが響いた。

 「ダメだ、行くな! それは“向こう側”の世界だ!」


 遅かった。

 結衣が一歩踏み出した瞬間、彼女の身体がふっと溶けるように消えた。

 香澄も一緒に、闇の中へと消えていく。



 残された四人――いや、三人。

 いや、もう誰が誰なのか分からない。


 井上の姿はすでになく、

 高橋の顔は、いつの間にか加藤のものになっていた。

 長谷部が震えながら叫ぶ。

 「もう……もう見分けがつかない!」


 彼らの身体が溶け合い、輪郭が曖昧になっていく。

 世界そのものがひとつの巨大な“視界”に飲み込まれていく。


 赤い信号が、ゆっくりと青に変わった。

 誰も動かない。

 けれど街のどこかで、誰かが囁いた。


 > 「――見えたね。」


 その声を最後に、桜代中央交差点は再び静寂に包まれた。

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