出来損ないΩと虐げられ追放された僕が、魂香を操る薬師として呪われ騎士団長様を癒し、溺愛されるまで

藤宮かすみ

第1話「出来損ないの烙印」

 埃っぽい屋根裏部屋の小さな窓から、冷たい月光が差し込む。

 床に置かれた粗末なベッドの上で、エリオットは静かに息をひそめていた。階下から聞こえてくる父と兄たちの楽しげな笑い声は、分厚い壁に隔てられた遠い世界の出来事のようだ。


 ここはグレイフィールド子爵家の屋敷。そしてエリオットは、その家の三男。

 しかし、彼が家族からその名で呼ばれることはほとんどない。


『出来損ない』

『我らαの血を汚すβの出来損ない』


 それが、この家におけるエリオットの呼び名だった。

 この世界には男女の性別の他に、α(アルファ)、β(ベータ)、Ω(オメガ)という三つの第二の性が存在する。人々は生まれながらに素質を持ち、十八歳の誕生日に行われる「洗礼の儀」を経てその性は確定する。


 エリオットの一家は、代々優秀なαを輩出してきた家系だ。父も二人の兄も、皆が誇り高いαとして強大な魂香(ソウル・パフューム)を輝かせている。

 魂香とは、第二の性が放つ生命エネルギーの香り。時に人を惹きつけ、時に人を従わせる、絶対的な力の証だ。


 しかしエリオットからは、その魂香の気配がほとんど感じられなかった。

 医師の診断では、おそらく平凡なβだろうとのこと。αの血族から生まれたβ。それはグレイフィールド家にとって、拭い去ることのできない汚点であり、恥辱だった。


「おい、エリオット。父上がお呼びだ」


 乱暴にドアが開けられ、次兄のダミアンが顔をのぞかせる。侮蔑に満ちた目が、暗闇にうずくまるエリオットを射抜いた。


「……はい、兄上」


 震える声を抑え、エリオットは立ち上がる。着ているのは兄たちのお下がりの、ぶかぶかで色褪せた服だ。

 案内された父の書斎には、父と長兄のギデオンが揃っていた。暖炉の炎が、彼らの冷たい表情を赤く照らし出す。


「エリオット。貴様もあと一月で十八になるな」


 重々しい父の声が、部屋の空気を震わせた。


「はい、父上」


「洗礼の儀が終われば、貴様の性が確定する。まあ、βに決まっているだろうがな」


 父は手にしていたワイングラスをテーブルに叩きつけるように置く。赤い液体が音を立てて揺れた。


「βなど、このグレイフィールド家には不要だ。儀式が済み次第、お前は北の領地へ行け。あそこにある古い山小屋で、管理人として一生を終えろ。我々の目の届かぬ場所で、静かにな」


 それは事実上の勘当であり、追放の宣告だった。

 予想していたことではあった。けれど、直接突きつけられた言葉の刃は、エリオットの心を深く、深く抉った。


『どうして、僕だけが』


 俯くエリオットの銀色の髪が、さらりと顔にかかる。

 父や兄たちのような力強い魂香も、人を惹きつける魅力もない。ただ、そこにいるだけの存在。それが自分なのだと、幼い頃から言い聞かされてきた。


「返事はないのか、出来損ないが」


 ギデオンの苛立った声が飛ぶ。


「……承知、いたしました」


 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。

 もう用はない、とばかりに手を振られ、エリオットは書斎を後にする。自分の部屋へ戻る足取りは、まるで鉛を引きずっているかのように重い。


 屋根裏部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。

 窓の外では、星が静かにまたたいていた。あの星空の向こうには、どんな世界が広がっているのだろう。この息の詰まる屋敷から、遠く離れた場所へ行けたなら。

 そんな叶わぬ夢想に、涙が滲む。


 唯一の救いは、五年前に亡くなった祖母が遺してくれた、この屋根裏部屋の隠しスペースだった。壁の一角を押すと、軋む音とともに小さな扉が現れる。その奥には、祖母の私室へと続く秘密の通路があった。

 祖母は、この家で唯一エリオットに優しくしてくれた人だった。

 彼女は著名な薬草学者で、その魂香は人を癒す力を持つ、穏やかなβだったと聞いている。


『エリオット。あなたのその手は、いつか誰かを救う手になるのよ』


 幼い頃、庭で薬草を摘みながら、祖母はそう言ってエリオットの頭を撫でてくれた。

 祖母の部屋には、今も彼女が愛用していた薬草学の本や、乾燥させたハーブの束が残されている。壁一面の本棚に並ぶ無数の書物が、エリオットのただ一人の友人だった。


 彼はそこで、様々な薬草の知識を学んだ。どの草が痛みを和らげ、どの葉が心を落ち着かせるのか。本を読みふける時間だけが、エリオットを孤独と絶望から救ってくれた。

 特に彼が惹かれたのは、「魂香と薬草の関係」について書かれた古い文献だった。

 そこには、魂香が人々の心身に与える影響や、薬草と組み合わせることで効果を増幅させられる可能性が記されていた。


『僕には、魂香なんてほとんどないのに』


 自嘲気味につぶやく。

 けれど、本を読んでいると、不思議と心が安らいだ。まるで、優しい祖母の魂香に包まれているような、温かい気持ちになれた。


 そんなある日、エリオットは屋敷に仕えるメイドのアンナが、ひどい頭痛に悩まされていることを知った。彼女は、この家で数少ないエリオットの味方だった。


「アンナ、つらそうだね」


「エリオット様……。ええ、少し。季節の変わり目はどうも苦手で」


 痛みをこらえ、無理に微笑むアンナの姿に、エリオットの胸がちくりと痛んだ。

 彼は祖母の部屋からこっそりとカモミールとラベンダーのハーブを持ち出し、彼女のためにブレンドティーを淹れた。


「これを飲んでみて。少し、楽になるかもしれないから」


 おずおずと差し出されたカップを受け取り、アンナは驚いたように目を見開く。


「まあ、エリオット様が? ありがとうございます」


 彼女が一口飲むと、その強張っていた表情がふっと和らいだ。


「……不思議。あんなにズキズキしていたのが、すっと引いていくようです。それに、なんだかとても心が落ち着く香り……」


「よかった」


 アンナの笑顔を見て、エリオットの心にぽっと小さな灯りがともる。

 誰かの役に立てた。ただそれだけのことが、凍てついていた彼の心をほんの少しだけ溶かしてくれたのだ。


 それから、彼はこっそりと体調の悪い使用人たちのためにハーブティーを淹れたり、小さな匂い袋を作って渡したりするようになった。

 誰もそれが「出来損ない」のエリオットの仕業だとは気づかなかったが、それでよかった。誰かの痛みが和らぐのを見られるだけで、エリオットは満たされた気持ちになった。


 しかし、そんな穏やかな秘密の時間は長くは続かなかった。


 洗礼の儀を三日後に控えた夜。

 エリオットはいつものように祖母の部屋で本を読んでいた。その時、階下から父の怒鳴り声と、何かが割れる派手な音が聞こえてきた。


『また兄上たちが、何かやらかしたのかな』


 そう思いながら、彼はそっと部屋のドアを開け、廊下の様子をうかがった。

 聞こえてきた会話に、エリオットは息をのんだ。


「……だから言ったのだ! あの王家の騎士団長、カイゼル様に睨まれては、我が家の未来はないと!」


「申し訳ありません、父上! まさか、あの程度の挑発で、あの方自らが出てくるとは……」


 カイゼル騎士団長……。

 その名はエリオットですら知っていた。エルミール王国騎士団の頂点に立ち、「氷の騎士」と畏れられる王国最強のα。非の打ち所のない完璧な貴公子として、社交界の噂の中心にいる人物だ。

 どうやら、兄たちが酒場でカイゼル騎士団長の部下と揉め事を起こし、彼の怒りを買ってしまったらしい。


「カイゼル様は、我がグレイフィールド家のやり方に思うところがあるご様子だった。……そうだ、良い考えがある」


 父の声のトーンが変わる。そこに宿ったのは、ねっとりとした底意地の悪い響きだった。


「儀式の後、エリオットをカイゼル様の元へ送るのはどうだろうか。もちろん、北の領地へ送るという名目でな」


「エリオットを? あの出来損ないをですか?」


「そうだ。βの身で騎士団長の慰み者になれるなど、光栄なことだろう。これで少しはカイゼル様の機嫌も直るやもしれん。どうせ使い道のない駒だ、せいぜい家の最後の役に立ってもらおうではないか」


 下卑た笑い声が、廊下に響き渡る。


 エリオットは、その場に凍りついた。

 全身の血が、急速に冷えていくのを感じる。


 厄介払いされるだけではなかった。

 モノのように、道具のように、誰とも知らぬαの元へ、慰み者として送られる。それが、自分に与えられた未来。


『嫌だ』


 心の底から、叫びが湧き上がった。


『そんなのは、絶対に嫌だ』


 恐怖と屈辱に、体が震える。

 このままではいけない。この家から、逃げなければ。


 どこへ? どうやって?

 金もない。頼れる人もいない。十八年間、この屋敷という鳥かごの中だけで生きてきた自分に、外の世界で生きる術などあるはずもなかった。


 それでも。


『逃げたい』


 強い衝動が、彼を突き動かした。

 エリオットは自室へ駆け戻ると、小さな布袋に祖母が遺してくれた数枚の銀貨と、数冊の薬草学の本、そして乾燥ハーブを詰め込んだ。


 アンナにだけは、別れを告げたかった。

 厨房へ向かうと、彼女は一人で後片付けをしていた。


「エリオット様? どうかなさいましたか、そんなお荷物を持って」


「アンナ……。僕、行くよ」


 エリオットのただならぬ様子に、アンナはすべてを察したようだった。彼女は何も聞かず、ただ震えるエリオットの手をぎゅっと握りしめた。


「……どうか、お達者で。エリオット様の優しさは、きっとどこかで誰かの光になりますから」


 彼女は、自分のわずかな貯えの中から、数枚の金貨をエリオットの手に握らせた。


「お守りです。どうか、ご無事で」


 涙をこらえ、アンナは微笑んだ。

 その温かさに、エリオットの胸は張り裂けそうだった。


「ありがとう、アンナ。……本当に、ありがとう」


 深く頭を下げ、エリオットは闇夜の中へと駆け出した。

 冷たい夜風が、頬を打つ。振り返れば、憎んだはずの生家が、巨大な影となってそびえていた。


 もう、戻ることはない。

 戻る場所も、どこにもない。


 広大な王都の明かりが、地平線の向こうでぼんやりと輝いている。

 これから自分はどうなるのだろう。不安に足がすくむ。


 けれど、エリオットは前を向いた。

 握りしめたポケットの中には、祖母の教えとアンナの優しさがある。


『僕の手は、いつか誰かを救う手になる』


 今はまだ、か弱く震えているだけの手。

 けれど、いつか。いつか必ず。


 夜の闇へと溶けていく小さな背中を、月だけが静かに見下ろしていた。

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