第三章 失われた空の街

星の海を渡り終えた頃、シロは静かに尾びれを揺らした。

その瞬間、夜空の色が変わり、雲の上に巨大な都市が浮かび上がる。

塔のような建物が空中に連なり、道は光の橋で繋がっている。

だが、その輝きの中に、どこか寂しげな影が漂っていた。


「ここは……?」

レンが呟くと、シロが低く答えた。


「“空の街”。昔、人々が夢を信じて築いた場所さ。けれど、もう長い間、ここに住む者はいない。」


「誰も……いないの?」


「一人だけ、まだ残っている。自分の夢を失っても、この街を手放せない者が。」


レンは少し不安になった。

けれど、シロの背を降りると、光の道を歩き出した。

靴音が、静まり返った街に響く。


風が吹き抜けるたびに、建物がかすかに軋んだ。

どこからか、ピアノの音が聞こえる。

古びた音色。切なく、優しく、痛いほどに懐かしい。


音のする方へ進むと、崩れかけた展望塔の中で、一人の青年がピアノを弾いていた。

白いシャツに、疲れた目。

それは――驚くほど、レンに似ていた。


「……だれ?」

レンが声をかけると、青年は弾く手を止め、ゆっくりと振り向いた。


「君こそ、だれだい? この街に人が来るなんて久しい。」


レンは息をのんだ。

その顔、その声――まるで、少しだけ成長した自分自身のようだった。


「ぼくはレン。夢の旅をしてるんだ。あなたは……ぼく、なの?」


青年は小さく笑った。

「そう。かつて“夢を見ること”をやめた、君の未来の姿さ。」


レンは一歩、後ずさった。

「そんなはずない。ぼくは、夢を……!」


「本当に? 現実に戻った君は、また傷つくよ。友達も、世界も、君の優しさを利用するだけだ。夢なんて、守れない。」


青年の言葉が冷たく響く。

周りの空が徐々に曇り、街の光が消えていく。

ビルが崩れ、空の橋が砕け落ちていく。


レンは叫んだ。

「やめて! どうしてそんなこと言うの!?」


「これは現実だ、レン。君がいくら優しくても、誰もその優しさを見ない。君はただの“いじめられっ子”のままだ。」


「……違う! ぼくは……!」


レンの声が震えた。

胸の奥から、抑えていた記憶が蘇る。

笑われた声。

殴られた痛み。

誰も助けてくれなかった教室。


――“自分なんて、いなくてもいいんじゃないか。”


その時、遠くでクジラの鳴き声が響いた。

低く、優しく、包み込むように。


「レン。」

シロの声が空から降ってくる。

「君は何のために旅をしている?」


レンは目を閉じた。涙が頬を伝う。

「……ぼく、もう一度笑いたかった。誰かと一緒に、もう一度……信じたかった。」


青年は静かにレンを見つめる。

その目が、少しだけ揺れた。


「信じることなんて、怖いだけだ。」


「それでも……!」

レンは叫んだ。

「信じないまま生きる方が、もっと苦しいんだ!」


その瞬間、空の街がまぶしい光に包まれた。

崩れた建物が立ち上がり、光の橋が再び繋がる。

空に虹がかかり、風が柔らかく吹き抜ける。


青年――もう一人のレンは、目を細めて笑った。

「……そうだね。ぼくも、忘れていたのかもしれない。」


彼の姿が、光の粒となって消えていく。

「さよなら、レン。君が歩き出せることを、願っているよ。」


「……ありがとう。ぼくの、もう一人の“ぼく”。」


光が消えると、再びシロの背の上だった。

雲の切れ間から、朝焼けが差し込んでいる。

レンは小さく笑った。

胸の奥に、確かに何かが灯っていた。


「シロ……あの街は、ぼくの心の中だったんだね。」


「そう。君が閉ざしていた“夢”の残響だ。けれど、もう大丈夫。君は自分を受け入れた。」


「……うん。少し怖いけど、もう一度、現実を歩いてみたい。」


シロは優しく尾を振った。

「その時が来たら、ぼくはまた君を送り出そう。」


レンはその背の上で、初めて自分から笑った。

「ありがとう、シロ。」


風が吹き抜ける。夜と朝のあいだの空。

遠くに、新しい光が見えていた。

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