職場のレズ先輩と私

砂山 海

職場の先輩がレズだったが見向きもされなかったので復讐します

 職場に桐生馨という先輩がいる。彼女は同性の私から見ても凄く素敵で、色っぽい。色っぽいと言っても下品な感じではなく、何と言うか妖艶とでも表現した方が正しく、知的で上品な色気という感じ。顔立ちも中性的と言うよりは整った女性的な感じで、スタイルも良い。スーツの上からでも豊満な胸がわかるくらいだ。

 おまけにとても仕事ができる。私達の職場は飲食チェーン店のマーケティング企画部という所で新しい商品やサービスを提案し、それをどのように浸透させて売り上げを伸ばすかという仕事なのだが、彼女の意見の採用率は群を抜いている。下調べも非情に良く出来ていて、しばしば上層部を唸らせているみたい。

 そんな人だから男性からの人気が高い。なら女性から恨まれたり妬まれたりしているのかと言われれば、そんな事はあまり無い。と言うのも彼女、コミュニケーション能力が高いので、ほぼどんな話題でも合わせられるし、仮に知らない話題だとしても興味深そうに質問したりしてくるので会話が尽きないからだ。

 何と言うか、一体どんな風に育てばこんな人間になれるんだろうと感心する。私も嫉妬だとかそんなレベルではなく、ただただ尊敬というか雲の上を見上げるような感じにしかならない。そして、同じ人間なのかとたまに疑問に思ってしまう。次の主任候補の一番手だと噂されているが、それも当然だろう。

 ただ、噂は他にもある。馨先輩はレズビアンだという事。

 最初のその噂を聞いた時、素直に信じる事はできなかった。だって男性社員とも普通に会話しているし、別に毛嫌いしている風には見えなかったから。私は良くわからないけど、そういう人って男性を避けがちじゃないのかなと思っている。

 ただ、最初は信じられず聞き流していた噂も私の心にほんの小さな種を植えるには十分だった。それは日にちが経つごとにどんどんと根を深め、芽吹き、事あるごとに彼女を観察するようになった。本当にそうなのか、どう言う所が噂されているのだろうか、なんてあらを探すわけじゃないけどふとした時に馨先輩を目で追うようになっていた。

 しかし馨先輩が上手いのか私が鈍いのかわからないけど、全くわからなかった。どれだけ観察していてもそういう素振りは無かったし、ネットで調べた特徴と言うのに全然当てはまっていない。

 ならば疑いは晴れた、それは悪意ある噂だ。なんて事にはならないのが噂の恐ろしい所で、どこかでもしかしたらなんて思いがずっと拭えずにいた。

 そんなある日、馨先輩と二人で残業となった。なるべくなら残業しないで帰ろうとする私なのだが、どうしても片付けないといけない仕事が終わらなかったから。先輩は先輩で次のプレゼンのための資料作りをしているみたいだった。

 早く帰りたいので黙々と作業を進めていたのだが、どうしても集中力が切れる。ふとパソコンから顔を上げれば馨先輩は涼しい顔で仕事を続けていた。その端正な顔を見ているとあの噂を思い出し、気付かれないように観察する。

 当たり前だけど会社なのでいかにもな感じはしないし、そういう素振りも見た事が無い。でも恋愛対象が女の人って事はもちろん、夜の方もそうなんだよね。こういう人でもそう言う事したりするのか……。

「どうしたの、さっきから私の方見て。もう終わったの?」

 残業しているのに不機嫌さも苛立ちも感じさせない、いつも通りの落ち着いた声で話しかけられた私は驚き、思い切りびくりと肩を震わせてしまった。私がそんなに驚いた理由がわからない馨先輩は怪訝そうに眉根を寄せる。

「何? 私、そんなに驚かせる事でも言った?」

「あ、いえ、そういうわけじゃなくて、ちょっと気になる噂と言うか何と言うか」

「噂? 私の? どんなの?」

 悪手だと思ったのは言った後だった。こんな風に言えば正直に言わなきゃならないし、誤魔化す事も不自然だ。こういうのが下手だから、私は物事を組み立てて考えられないのかもしれない。なんて反省もそこそこに、覚悟を決める。

「いやあの、馨先輩がレズだって噂が立てられていたんですけど、違いますよね?」

「あぁ、それね。本当よ」

 さも当たり前だと言わんばかりに平然とカミングアウトした馨先輩に驚いたのは不思議な事でも何でも無いだろう。もっと否定するとか誤魔化すかと思っていただけに、思わず目を丸くしてぽかんと口を開けてしまう。

「何て顔してるのよ。そんなに驚く事? 美雨さんだって男性か女性か、あるいはそのどちらかが恋愛対象なんでしょう。まぁ無機物だろうがかまわないけど」

「え、だって」

 私がそう口を開いた時にはもう既に馨先輩が言いたい事を予測しているかのような顔をしていた。

「普通じゃないって? 普通の定義って子供が作れるかどうかって事? 一目惚れでも何でも、美雨さんは恋愛の最初にそんな事を考えたりするわけ? 違うよね」

 畳みかけられるようにそう言われ、頭の悪い私はとっさに反論できない。ただすごくバカにされているようで何だか腹が立ってきて、私は思わず椅子から立ち上がった。

「えー、じゃあ私の事もそういう目で見たりしてるんですか?」

 気持ち悪いさを込めた視線を送り、小馬鹿にしたような感じで言うと馨先輩は冷笑しながら溜息を返してきた。

「あのね、あなたはそこに男性や女性がいれば誰でもそう言う目で見るの? 田尾君でも古関先輩でも、篠井部長でも?」

 冷たい正論が私に刺さる。どうにか言い換えそうと奥歯を噛みながら言葉を探していると、馨先輩が凄く冷めた目を向けながら一つにやりと笑う。

「安心して、興味無いわよ」

 その眼差し、言い方、雰囲気、何もかもが私なんかに魅力が無いとハッキリ言われたみたいで、かあっと頭に血が上る。もう尊敬していた先輩だろうが関係ない、酷い事を言ってやろうと決意した途端、すっくと馨先輩が立ち上がった。

「さて私はもう仕事が終わったからあがるわね、お疲れ様。残業、頑張ってね」

 ひらひらと手を振って微笑みながら軽やかな足取りで去って行く馨先輩に一瞬呆気にとられたが、私はすぐに怒りを取り戻す。

「ちょっと」

 けれどパタンと閉められたドアに言葉の続きを断たれてしまった。

 やり場のない怒りがぐるぐると駆け巡り、舌打ちすると私は傍に置いてあった冷たいコーヒーを一気にあおる。ほの甘い糖分がじわりと染み渡り、いつもならこれで大抵のストレスが発散されるのだが、今はそうもいかない。完全に頭に血が上っているのがわかる。

「あぁもう、腹立つ」

 私だってそんなに美人だとは思わないけど、人並み程度には顔も整っている方だと思う。身だしなみもしっかりしているし、悪くはないんじゃないかと思っているのに、一体なんだと言うのだろうかあの言い方。今は彼氏が途切れている最中だけど、全く興味が無いなんて腹が立つ。レズのくせに。

 けれどこれで彼女がレズだとバラしたところで本人には何のダメージも無い事がわかった。動揺していないどころか、むしろ堂々とさえしていた。私がきっとあれこれ言ったところで、馨先輩の話術と人柄で私の方が悪人にされてしまうだろう。

 こんなにバカにされたのは初めてだから、どうにかして仕返ししてやりたい。けれどどうやればいいのだろうか。話術は無理、仕事の出来や出世競争なんかはもっと無理。単純なイタズラなんかは逆効果だ。

 一体どうすればと腕組みした所で、ふと思い当たる。そうだ、馨先輩ほど大きくは無いけど私だって胸があるし、女だ。今は魅力が無いからと相手にされなかったけど、何とかして魅力を上げればレズの先輩なら食いつくかもしれない。そこで相手に気を持たせたところで、こっぴどく断ってやろう。

 うん、それがいい。個人的にダメージ入るし、言われた私の方の立場が上になる。常時マウント取れるならば、これしかない。だったらどうにかして馨先輩に好かれるように動かないとならないな……。


 翌日から私は復讐への地固めのため、まず化粧の勉強を改めてする事にした。思えば自己流で雑誌や動画、または友達と意見交換し合った結果今に至るけど、もっとしっかり覚えてもいいかもしれない。結局何だかんだ言っても人は外面優先なわけで、そこをまずクリアしないと内面を見ようと思わないのだから。

 もちろんそれだけだと遊んでばかりいる奴だと思われ、評価を下げてしまう。だから一つでも二つでも仕事を探し、少しでも残業をして馨先輩と一緒にいる時間を作る事にした。あぁ言われたのは思い出すだけで腹が立つけど、でもこれ以上今は対立するべきじゃない。幸いにして、向こうからその件を持ち出してくる事は無かったし、また器の大きさを見せつけるためか態度も今まで通りだ。

 とにかく今の私は馨先輩から見てあの言葉通り何の魅力も無いのだとしたら、このままアピールしたところで無意味だ。ならば外面も仕事も磨いていかないとならない。それに残業をして少しでも一緒にいれば、何かしらの情報を得られるだろう。そうじゃなくとも、目の届く範囲にいればほんの少しづつだけど意識が向かうはず。

「お疲れ様でした」

 けれど一緒に残業をしていても特に向こうから会話してくる事も無く、自分の仕事が終わればさっさと帰ってしまうばかり。一週間ほど一時間くらい残って仕事をしていたのだが、その間一言も雑談を交わさなかった。

 これはもっとアピールというか、私の方から踏み出さないとならないのかもしれない。

「お疲れ様です、馨先輩」

 ある日の残業中、私はそう言いながら冷たい微糖の缶コーヒーを渡した。馨先輩は若干困惑した眼差しを向けてくるが、それも当然だろう。私から今までおごったことなど無いのだから。

「これは?」

「あぁ、さっき飲み物買った時についでにと思いまして」

「そう、ありがとう」

 けれどそれ以上話が広がらず、その日はそれで終わってしまった。

 コミュニケーション能力が高い馨先輩だけど、その先輩が話を広げようとしない限りはどうしても上手くいかない。私の方からあれこれ必死に訊き出すのも何だか癪だし、でも私から行かないと永遠にこのままだ。どうすればいいのだろう。

 考えた挙句出した私の答えは他人から情報を得るという方法だった。

 何が好きで何が嫌いか、何が得意で何が苦手か。そういうのを知る事が出来れば地雷を踏み抜かなくても良いし、話題を広げられるかもしれない。馨先輩ほどではないけれど、私だってある程度は他の社員と仲が良いのできっとできるはずだ。

 時にコーヒー休憩で、時に給湯室での井戸端会議で、時に飲みに行ってお酒の力を借りてでも馨先輩の情報を集めた。男女ともに一目置く存在であるからか、注目度が高いので少し探れば色んな情報を得られる。

 そして二週間かけて集めた情報を統合すると一人暮らしで犬好き、お酒も好きで自炊も結構する。趣味はドライブと旅行。集められた情報はこんなものだった。

 正直、どんな人がタイプでどんな人が完全にストライクゾーンに入っているかという情報が欲しかった。でも情報をくれた人達に暴言を吐くつもりは無い。だってきっと馨先輩ならそういうのを問われても答えない気がするから。

 とりあえず得られた情報を元に私は残業で二人きりになった時、さっそく会話をしてみる事にした。

「そう言えば馨先輩って犬とか好きなんですか?」

「そうね、好きよ。今はマンションに住んでいるから飼えないけど、実家には秋田犬がいるから帰った時に可愛がってるわよ」

 パソコンから顔を上げて答えてくれた時、その瞳が幾分か柔らかく見えた。動物が好きな人はこういう話題に食いつきやすいと改めて思いつつ、私はその種火を消さないよう注意深く進める。

「そうなんですね。私も実家でトイプードル飼っているんですよ。馨先輩のワンちゃんってオスですか、メスですか?」

「オスよ。もう八歳になるかな」

「へぇ、じゃあまだまだ元気でしょうね」

「そうね、元々落ち着いた子だけどでもまだ散歩に行く時は元気ね。美雨さんも飼ってるのね。今は何歳?」

 キーボードを叩く音が止まり、馨先輩が私の目を見てくる。その眼差しは柔らかく、興味深げだ。

「今は五歳ですね。うちの両親も犬好きで、子供の頃からひっきりなしにいるんですよ。今の子はマロンって言うんですけど、物心ついた時から数えて三匹目です」

「私の所も二匹目かな。ずっとトイプードル?」

「いえ、最初の子は柴犬でしたね。その子は私が生まれる前から飼っていたので、幼い頃に亡くなっちゃんです。次にラブラドールレトリバーを。凄く頭が良くて、人懐っこくて、結構長生きだったから亡くなった時はもう悲しくて」

「そうよね、ずっといた子が亡くなるのはきついわよね。私も前に飼っていたコーギーが亡くなった時はもうショックで、二度と飼わないって思ったもの。でもやっぱりいた生活ってのが当たり前すぎて寂しくてね」

 会話のきっかけになればと思って始めたが、思った以上に私ものめり込んでしまっている。若干の楽しさと一緒に共感してくれる嬉しさが込み上げ、つい体が前のめりになってしまっていた。

「えー、馨先輩ってそんなに犬好きだったんですね。私と同じでずっと一緒にいたんだ」

「いるのが日常だったからね。美雨さんもそんなに好きだとは思わなかった」

「なんかこういうので盛り上がれたの久々で嬉しいです。本当はもっと話したいんですけど、職場であまり盛り上がるのもどうかと思いますよね?」

 すぐに私の意を察したのか、馨先輩がふっと口元を緩ませた。

「なら早く終わらせて少し飲みながら話す?」

「いいですね。行きましょう」

 二人ともそんなに切羽詰まった残業では無かったためきりの良い所で終わらせると、揃って会社を出た。夕方六時半を少し過ぎた街中はまだ明るいものの日中の気温はやわらぎ、幾分か過ごしやすい。往来には仕事を終えたサラリーマン、これから夜のお店へと出勤するお姉さん、もう飲んでいるのかテンションの高い学生などが入り混じっている。

 お酒が好きだという情報があったからこそ、こうして誘う事が出来た。丁度今からだとお店も色々開いているし、雰囲気も良い。私は馨先輩と犬トークをして場を繋ぎながら、どこへ連れて行ってくれるのかもわからず歩き続けた。

「そう言えば美雨さんってお酒大丈夫よね」

「はい、大丈夫です。馨先輩はお好きなんですよね」

「そうね。大体は家で飲んでいるけど、休みの前はこうして一人でも行くくらいには」

「一人でも行くんですか? てっきり私、顔の広い先輩なら何人かで行っているものだとばかり」

 驚く私に馨先輩はくすくすと笑い出す。

「何人かで行く事ももちろんあるわよ。ただ、一人で行って気ままに飲むのも好きなの。なかなかいないでしょ、そこまでの人って」

「そうですね」

「そのくらいって意味でも使ったのよ」

 単に丁寧に教えてくれたのか、それとも行間を読めと小馬鹿にされているのか。関係によって捉え方は変わってくるけど、私は以前の事があったので後者にしか思えなかった。ただここで腹を立ててもしょうがない、まだまだ気分良くいてもらいたいのだから。だから私は曖昧にうなずくと、それ以上何も言わず歩き続ける。

「着いたわよ」

 そこは角地に立っているビルの一階にあるイタリアンバルだった。あまりこっちの方で飲まないため初めて見たお店だが、窓から見える内装はとてもオシャレで雰囲気も良さそう。男の人と飲みに行く時じゃないとなかなか使わないようなお店だけど、馨先輩が一人でいたとしても違和感は無い。

 店内に入ると落ち着いた照明とそれに準じた客層。大笑いするような声は聞こえず、でもそこかしこから話し声があって緊張はそこまでしない。私達は奥の方の四人掛けのテーブルに案内される。内装も中世を意識したとかあからさまなヨーロピアンというわけでもなく、近代的な内装だ。

「ここね、お酒も料理も美味しいの。それに、そんなに高くないのよ」

 メニューを開いてみれば、確かに驚くほど高いと言うわけではなかった。でも私が良く友達と行くような大衆的なチェーン店とは違い、それなりの値段がする。まぁ、だから客層もいいのだろうけど。

 料理は馨先輩に任せ、お酒を注文する。そうしてすぐ届けられると、乾杯と言いながらグラスを重ねるフリをした。

「馨先輩が行くようなお店って、大体こんな感じなんですか?」

「色んなとこに行くわよ。大衆的な焼き鳥屋も個人でやってるような居酒屋も、こういうちょっと洒落た店やバーなんかにもね。今日はほら、美雨さんと二人で飲みに行くの初めてでしょう。だからね」

 柔らかな物言いだけど、それが何だか可愛いというか乙女というか、結構意外だった。

「えー、馨先輩って私にでもそうやって見栄張ったりするんですね」

「見栄も多少あるかもしれないけど、ただ純粋にここが好きだからってのもあるわよ。そういうのって余程の人じゃない限り、共有しようって思わない?」

「まぁ、そうですね」

 なんて話している間に馨先輩はもうグラスを空にして、二杯目を頼んでいた。私はまだ三分の二は残っている。お酒が好きだとは聞いていたけど、こんなに早いペースだとは知らなかった。だから私も少しペースを上げ、場の雰囲気を壊さないようにする。

「そうだ、馨先輩のワンちゃんの画像とかあります? 見てみたいです」

「いいわよ」

 そう言って差し出してくれたスマホには顔周りがモコモコとした秋田犬が映っていた。愛嬌がありながらも賢そうで、お座りしながらこちらを見ている。

「えー、すごい可愛いですね。抱き心地とか良さそう」

「名前はチャタローって言うの。茶色いからね。もし良ければ美雨さんのも見せてもらえるかな?」

「えぇ、どうぞ」

 私もスマホを差し出す。選んだ一枚はボールをよじ登ろうとしている姿のトイプードルのマロン。お気に入りの一枚だったが、馨先輩も気に入ってくれたのか頬を緩めている。

「可愛いわね、すごく」

 飼い主だと当たり前だろうけど、自分の愛犬を褒められるとすごく嬉しい。それが例え復讐をしようとしている相手からだとしても、だ。私達はあれもこれもと自分達のお気に入りの画像を見せ合いながら、お酒を飲み進めていく。

「そう言えば美雨さん、最近よく残っているけどどうかしたわけ?」

 五杯目のグラスを空にした馨先輩がまだまだ顔色を変えず、じっと私を見てきた。私はもう三杯目でほろ酔い気分になっている。別に三杯くらいいつもなら平気な量なのだが、今日は馨先輩のハイペースに付き合っているからか酔いも少し早い。

「どうって、まぁ何となくもう少し仕事出来るようになりたいから勉強してるんです」

「殊勝なものね。でも、以前よりは企画書もよくまとまってきているとは思うわよ」

「本当ですか?」

 思いがけない評価に私は嬉しくなり、少し前のめりになる。けれど馨先輩は顔色一つ変えず、新たなグラスを傾けるばかり。

「単独で企画を通すにはまだまだだけど、以前に比べたらマシにはなってきているのは確かね。企画の着眼点は良いのだから、もう少し説得力を持たせるようなデータと、説明力があると良いかも」

 お酒の席でのお世辞なのかわからないけど、褒められればやっぱり嬉しい。何だかんだ言っても、仕事は物凄く優秀な人なのだから。それに私だって復讐のためではあったけど、実際に仕事ができるようになれれば自分のためにもなる。別に出世にはそんなに興味無いけど、出来るか出来ないかならば出来た方がもちろん良い。

 高揚しかけた私だったが、ふと馨先輩の微笑みが少し変わったように見えた。けれどその真意を測る事無く、とりあえず喉を潤す。

「それにしても、最近は随分と私の事を気にしているみたいじゃないの。残業だってその一環なんでしょう?」

 見抜かれたか、なんて思いつつも素直にはいそうですなんて言えるわけがない。

「いやいや、そんな。考えすぎですよ。ただ仕事ができる人だからもっと近くで見たら学べるものがあるのかとと思って。それにほら、自分で言うのもなんですけど私ってあまり成績も良くないから、危機感って言うんですかね」

「それはまぁ、立派な事」

 その言い方と眼差し、そして微笑みにイラッとしたが、仕事の事でどうこう言っても分が悪い。先程までの嬉しい楽しいと言った気分はどこへやら、やっぱり憎くて復讐してやろうと言う気持ちが強まる。

 それは表情にも出ていただろう。でも馨先輩は一切気にする素振りも無く、またお酒を注文していた。

「わかってるんだからね、全部。私に探りを入れようとしてるのも、他の人に訊いて調べ回っているのも。大方、以前の事を根に持って私に対して何かしてやろうとでも思っていたんじゃないの?」

 一分の狂いもなくハッキリと指摘された私は驚きのあまり、酔いもどこかへと消え去った。一体この人はどこまで知っているのだろうか? どれほどまで予測考察推測しているのだろうか?

 そんな目を丸くする私に対し、馨先輩は目を細め柔らかく微笑む。そこに悪意は無い。ただ本当に嬉しそうに、慈しむように私を見てくる。

「でもね、あの時よりは魅力的になっているのは間違いないわよ。ちゃんと相手を調べ、自分を磨き、仕事に活かし、結果自分を高めている。しっかりと努力して、綺麗に素敵になっているじゃない。そう言う人、好きよ」

 好きよ、そう言われると思わずドキッとした。憎しみが原動力だったはずなのに、結果ずっと考えている相手に認められた。それが自分は間違っていなかったんだと安堵しつつ、そう真っ直ぐな瞳で好きだと言われたのは初めてに等しかったから憎しみという殻を易々と破って揺れ動く。

 私は今まで三人の男の人と付き合ってきた。遊びだったり本気だったりその時々によって様々で、自分なりにそれなりに向き合ってきたつもり。でもこんなにも真っ直ぐな瞳で好きだとは言われなかったかもしれない。そして悔しいけど、その三人と比べるまでもなく馨先輩の方が客観的に見ても魅力的である。

 馨先輩にこうして見詰められると不思議な気分になる。何と言うか、発言を素直に信じてしまいそうな感覚。その涼し気で理知的な眼差しに吸い込まれてしまいそうになってしまうのだ。酔いも相まって、虜にされるような感覚。

 そんな人が私に真っ直ぐ好きだと伝えてきた。だからもう私はすっかり動揺してしまい、計画のバレてしまった復讐というものが無意味に思え、心のどこかで屈服しつつあったのかもしれない。

「ねぇ、もしよかったら今度のお休みの時、ドライブにでも行かない? 聞いたかもしれないけど、ドライブも好きなのよ私」

 もう完全に何も言えなくなる手前で、馨先輩がそう声をかけてくれた。そのタイミングも絶妙で、驚きや呆れを通り越してすごいなと素直に感心してしまう。

「そうですね、是非」

 ただやっぱり私にもプライドと言うか何と言うか、今までの事は全部無かった事にして素直に尻尾を振るのは気が引けた。誘いを受けはしたけど、これはまだ、確認するため。仕事帰りなんかではなく、完全にプライベートの時に会ってその様子を見れば、また何か違う姿がわかるかもしれないと思ったから。否定し続けるにはもう苦しいけど、肯定するにはまだ早すぎる。

「美雨さんは免許持ってないはずよね」

「そうですね。だからドライブの良さもあまりわからなくて」

 値踏みするように馨先輩がうなずきながら、またグラスを空にして新たな一杯を注文する。一体これで何杯目だろうか。顔色変わらないし、酔っている素振りも無い。私なんかもう、目の前の景色が揺らぎ始めているというのに。

「じゃあ、存分に楽しめるわね。気持ち良いものよ、色んな景色を流して普段と違った景色を見るのは。それに……ふふっ、その時が楽しみ」

 流れた髪をかき上げるその仕草が場の雰囲気と私の酔いもあって、やけに妖艶に見えた。


 約束した休みの日、最寄り駅まで馨先輩が車で迎えに来てくれた。真っ赤なスイフトが私の傍に停まり、下りてきた馨先輩は青いジーンズに白を基調としたシャツといったラフな格好。下手な人だとダサいけど、スタイルの良い馨先輩だからこそそれが妙に似合っていた。

「おはようございます。なんか私服のイメージ違っていたから少し驚いちゃいました」

「おはよう。ねぇ、どんなイメージを持っていたの?」

 ふわりと流れる風に馨先輩の髪がそよぐ。そんな風を受けて嬉しそうに笑うものだから、私もつられて笑顔になった。

「いやなんか、もっとフォーマルっぽい感じなのかなって」

「気軽なドライブだし、今日は暑くなりそうだもの。それに美雨さんの私服も凄くオシャレで素敵じゃない」

「ほんとですか、ありがとうございます」

 女同士、親交を深めるためのドライブ。そしてプライベートでの馨先輩がどんな人物なのかを探るためのドライブ。だからそんなに気合は入れていないつもりだったけど、でも初めて馨先輩とプライベートで会うから支度に時間はかかった。

「じゃあ、さっそく行きましょう」

 助手席に乗り込むと、ふわりと甘い香りがした。芳香剤の匂いだろうか、それとも馨先輩の香水だろうか。車内はそんな匂いに満たされているだけで、小物はあまり無い。友達の車ならぬいぐるみとかカーアクセサリなどが結構置かれているのに。

 その代わりオーディオは凄く凝っているみたいで、流れるパンクロックの重低音で背中を蹴られているかの様。もうこれだけで職場の姿とまるでイメージが違い、驚きのあまり少し小さくなってしまう。

「お腹まで響きますね」

「車を買う時に音楽に凝りたかったの。ほらここも、ここも、ここからも音が出るようになっているの。家でもよく聞くんだけど、なかなかマンションじゃあまり大きな音出せないでしょ」

 サッと教えてくれた場所を目を凝らせば確かに音が出るようになっている。きっと後部座席の方にもあるだろうから、一体何方向から流れてくるのだろう。

「ところで今日はどこに行くんですか?」

「どことは決めていないけど、とりあえず海岸線でも走ろうかなって。天気も良いから、きっと海も煌めいて綺麗かもね」

「あぁ、いいですね」

 車はしばらく幹線道路を走り、そこから海へと向かって行く。途中、コンビニに寄って暑いからと冷たいコーヒーをご馳走になる。海側へ向かって行けば街中と違って車の流れもスムーズになり、アップテンポの音楽と相まって楽しくなってきた。

「この辺は来た事が無いから新鮮ですね」

「自分の知っている世界って案外狭いものだって気付くでしょう。たった三十分そこらを走っただけでこうだもの」

 片手で缶コーヒーを飲みながら、器用にもう片方の手でハンドルをさばく。それは手慣れたもので、車はゆるやかなカーブを描きながらも危なげない。そうして幾つか曲がりながら勾配を登りきると、急に眼前に海が広がった。

「あ、海だ」

 別に私は海を見るのが珍しいわけではないけど、やっぱり海を見ればテンション上がる。天気が良いから青緑色に染まった海の手前が煌めき、水平線まで綺麗に見えた。タンカーやヨット、漁船が動くのを確認すれば更にわくわくし、隣にいる馨先輩の事を一瞬忘れて童心に帰るのは仕方のない事だろう。

 車は少しずつ下って行き、海へと近付いていく。交通量はほとんど無いため、気ままに走らせているかのよう。お腹に響く音楽にも慣れたどころか、むしろもうこのドライブに欠かせない存在になりつつある。音楽に合わせ私が首を小刻みに振っていると、ふと私の太ももにぺたりと馨先輩の手が置かれた。

 最初はちょっと驚きはしたものの、特に何とも思わなかった。本当に些細に、何だろうと思った程度で、特に不快感や嫌悪感など無かったからそのままにした。むしろ、シフトレバーを空振りでもしたのかなくらいにしか思わなかった。

 けれどそれは離れるわけでもなく、明らかに私のふとももだとわかっているはずなのにどかそうとしない。何だろうかと思ったが楽しくなってきた気分を壊したくなくて、そっと馨先輩の顔を見る。けれどただ前を見て、真面目に運転しているようにしか見えなかった。

 まぁ、でもこのくらいならと無視を決め込もうとしたところで、その手が少しずつ上へとさするように動く。思わぬ動きに困惑し、でもここで注意や抵抗をすればハンドル操作を誤って事故ってしまうんじゃないかと考えると、何もできなかった。

 それに、これは言えないけど、その愛撫にも似た様子がチリチリと私の奥底を刺激していて言い出しにくかったのも事実。

 そんな私の沈黙を肯定と捉えたのか馨先輩の手はするすると上へ伸び、やがて私のスカート越しに大事な部分へと辿り着いた時、やっと馨先輩を不審な目で見る事が出来た。

「え、何をしてるんです?」

 不快感を込めて言ったつもりだった。けれど馨先輩は意に介した様子もなく、冷静な眼差しのまま前だけを見ている。

「知りたいんでしょ、私の事。だからこのドライブも受けてくれたのよね」

「それは……って、ちょっと待って」

 どう言おうか迷っていると、いきなり馨先輩の手が私の股の間に入り込んだ。驚きと不意の刺激にビクリと私が震えると、ようやくにまりと笑ったように見えた。

「最初に私がこういう人間だって言ったし、美雨さんも知ってたわよね」

「言ったけど」

 語気を強めた途端、馨先輩の指がこすりあげるように何度も動き、スカート越しに甘くじれったい刺激が襲い掛かる。明かな行為に私はその手をどかそうとするけど、思ったよりも力が入らない。

「ちょっと、やめて」

「そう言う風には思えないけどね」

 くすくすといたずらっぽく笑う馨先輩の指は止まらない。私は力なくその手を抑えようとするけど、焼け石に水どころか彼女の愉悦を増長してしまっている気がする。期待なんて微塵もしていないし、女同士でこんなのはおかしいと思っているのに、どうしてだろう馨先輩に触られていると熱くなってくる。むず痒い蠢くような官能の刺激が私の頭をも柔らかく掻き毟っているかの様。

「目的がどうあれ、私の好みに近付こうとしてきたじゃない。ねぇ、美雨さんだってそれなりの容姿の人が必死に自分を磨いて気に入られようと努力し、お酒の席やプライベートで二人きりになったら何か感じるでしょ。違う?」

「それは……違わない、かも」

 囁くような甘い声に耳から私の理性が溶けていく。直接ではなくスカート越しに繰り返される刺激にどんどんと体が反応していき、次第に私はうつむき体を丸める。

「実は私ね、少し前から美雨さんに興味があるようになったの。だって可愛いんだもの。一生懸命に私をどうにかしようとする姿、凄くいいわ。だからね、全部教えてあげる。あぁもちろん美雨さんがしたいなら、好きにしてみる? できればだけど」

 顔を上げればその妖艶な瞳と言葉、そして止まらない指使いに私は耳まで真っ赤にしながらうつむき、湿ったそれを何とか隠そうとする。私はもう復讐の事なんかどこかへと消え去り、ただこの甘い享楽に一刻も早く身を任せてしまいたかった。

「良い顔してるわよ。大好き」

 そう囁くと、車はスピードを上げて下世話な看板のある方へと右折していった。

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