左手にあった温もり

@tiruika

左手にあった温もり

心が解放されるかのような心地の良い場所へ来た。そこでは何もかもが忘れられるように思えたが、どうもスッキリはしていない。それでも、少し前の自分より安堵している気がした。

周りを見てみると、綺麗な青と鮮やかな桃色の景色があった。大きな桜の木が目の前にあり、自分を優しく包み込んでくれるように満開に咲いていた。その下にはベンチがぽつんと置いてあり、手でベンチに付着している汚れを無意識のうちに丁寧にはらってベンチの左側へと静かに座った。

ふわふわした気持ちでぼーっとしている、というよりかはぼーっとすることしか出来なかった。あまり深い考え事をすることもなく時間を過ごしていると自分の横に気配を感じた。

ふと横を見ると恋人がいた。


恋人は俺の心の拠り所そのものだった。一緒によくこの場所に来て、一本桜の下のベンチで雪のような白くて繊細な彼女の手を大切に握りながら目の前に広がる思い出深い川を見て、好きな話や昨日あった出来事、将来の話など語り合いながら幸せなひと時を過ごした。景色がより色づいて見えたあの瞬間が何よりも好きだった。

俺は恋人からプレゼントでもらった白いセーターを着ながら話すことが好きで、彼女もそのセーターを着て話をする俺の姿が好きだった。

そんな何気ない生活を一生送りたかった。

急に風が吹き、満開に咲いていた桜の花びらがあたり一面に散っていった。

彼女は、言葉を探すように少し沈黙した。


「もう行かなくちゃ」


彼女は俺に重みのある一言だけをおいて優しく握っていた手を離し、川辺へと歩を進めた。

なぜか景色が濁る。

何が起こっているのかよく理解できなかったが心の奥底から行かないでほしかった思いが込み上がる。彼女に向かって自分もあとを追いかけた。

一緒に何度も足を運んだ川辺まで来て彼女の面影を必死に探したが、もう彼女の姿はどこにも見当たらなかった。。




気がついたら自分の部屋の天井が見えた。早くなった鼓動や呼吸を落ち着かせつつもベットの上にいる自分の状況を理解しようとした。

部屋には酒の空き缶がそこらじゅうに散らばっていて、恋人と一緒に買った色褪せた観葉植物もほとんど枯れ果ててしまっていた。カーテンは閉め切っていて色のない世界が自分の心を遠慮なく蝕んでいった。


今はもういない恋人がくれたセーターは首元から肩にかけて濡れていた。

そして、左手には強く握りしめたような手跡としょっぱい水が皮肉かのように皮膚にこびりついていた。

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