第16話:人を殺すということ
「う……ッ……げぇえぇぇぇぇ……」
伏見ネバダを殺して、その血まみれのナイフを捨てて、自分がやったことを自覚して。それから家に帰った須藤カーマは襲い来る吐き気に抗えず、えずいていた。プレッシャーのあまりの重量に、胃が悲鳴を上げ、胃液が食道を逆流する。伏見ネバダと一緒に食べたラーメンが、そのまま食べた分だけ吐き戻された。人を殺したことがある、と彼女は言っていた。だがそれでも、伏見ネバダを殺すことに何も思わないほど非情な人間でもない。襲い来る罪悪感は後悔と入り乱れて彼女を打ちのめす。アキラに恋されているネバダが邪魔だった。だからと言って、殺してまで排除する必要があったのか。答えは出ない。そうしてトイレで吐き戻しながら一夜が明ける。運が良ければ、まだネバダの死体は発見されていないはず。殺した死体は処理できなかったので、そのまま放置。ナイフは血がついたのでその場で放棄。指紋検査までは気が回っていなかったらしい。
「学校……行かなきゃ……」
一晩吐き続けて、食欲もわかない状況で、だがネバダを殺した容疑者が、その日に学校を休めば疑われる。いつものように恋堕の天使として愛嬌を振る舞って、アキラ先輩に好きになって貰わなければ。そのためにこそネバダを排除したのだから。
「…………」
気分は最悪だった。風邪を引いたのかと疑うくらいに意識がふらつく。足取りもおぼつかなくて、顔色も最悪。人間を殺すということが、どれほどの重圧なのか。それを須藤カーマは理解していなかった。とはいえそれは悪いことではない。人を殺して自己嫌悪を覚えているのだから、それは真っ当な精神とさえ言える。アパートを出て、そのまま学校へ。そうして学校につくと、晴れやかな笑顔が彼女を襲った。
「須藤さん。おはよう!」
「おはようございます!」
「おはよー。須藤さん」
まるで今が幸せとばかりに男子も女子も彼女に挨拶をしてくる。彼女が人を殺して最悪の気分だということを念頭にも置いていない気楽さ。彼女にしてみれば空気を読めと言いたくなる。けれど周囲の人間に悪意はなく、ただ恋堕の天使に挨拶をしているだけだ。一年生代表の美少女。そうあることを殊更に須藤カーマが望んだわけじゃないが、誰ともなく言っていた。
「一年生で一番可愛いのは須藤カーマさん!」
余計なお世話だと思った。ソレで期待して、嫉妬して、惚れて、憎んで、愛して、嫌って。そんなことに私を巻き込むな。それが彼女の本音なのだろう。
「すいません」
さすがにそのままの顔で教室には行けず。アリバイ工作も既に頭の中には無く。須藤カーマは保健室を尋ねていた。警察の捜査がいつから始まるのか。そして自分は捜査の手から逃れられるのか。その不安と恐怖で、とてもではないがまともに授業を受けられない。
「女の子の日?」
「いえ。純粋に気分が……」
気遣うように聞いてくる女性の養護教諭には悪いが、そっちはまだ問題なかった。
人を殺した。その感触が脳から離れない。首の頸動脈を刺したのだ。溢れるような赤い血。血特有の匂い。倒れたネバダの重量。光を失った目。全てがリアルだった。そのまま自分がやったことが恐ろしくなって、逃げるように須藤カーマは去った。その場に刺殺死体を残して。今頃蛆がたかってハエが飛んでいる死体があそこには放置されていて。ネバダが行方不明になることで警察の捜査が入り、死体を発見されるだろう。処理をするにも大きすぎる。人間一人を無かったことにすることはできないのだ。隠しても、警察が本気で探せば密林の中だろうと見つけるだろう。であれば自分に出来るのは平然と白を切ることだけ。それさえもできるか怪しいのだが。血液反応という捜査方法を、この須藤カーマは知らないらしい。
「気持ち悪い」
良心の呵責故か。あるいは警察に捕まって人生が台無しになる恐怖か。どちらだろうと、それが善良性の証であるとネバダなどは言うだろう。
「コーヒー飲む?」
養護教諭が聞いてくる。
「いりません。水をください」
カフェインを胃に入れる余裕はなかった。おそらく刺激物は飲みこむと秒で吐く。水ですら怪しいレベルだ。
「アキラ先輩……会いたいな……」
彼女のためにネバダを殺した。須藤カーマにとってアキラとは不可侵の領域で、男なんかに触れさせるわけにはいかないエデンの園なのだ。須藤カーマが……自分だけがアキラの愛を受諾していい存在。そう思ったからこそ、須藤カーマはネバダを殺したのだから。
「顔色悪いわね。今日は帰る?」
「いえ、ちょっと休憩すれば治りますから」
相対すれば調子を疑われる。保健室でさえ既にヤバいと思っているが、まさか教室でゲロを吐くわけにもいかず。警察の回避と自分のテンションを鑑みて、妥協案が保健室というだけのことだ。
「我ながら身勝手だと分かってはいるけど」
今は赤色は見たくなかった。血を想起させるだけで胃液がせり上がってくる。あるいは須藤カーマにとって、これから赤色は業になるのかもしれず。
「…………」
人を殺したのはこれで二度目だ。一度目は忘れもしない。二度目も忘れられなくなるんだろうなとは思っていて。自分にこんな人間性があるとは須藤カーマ自身思っていなかったらしい。ナイフで人を刺すことに覚悟を持っていたつもりで、実際のところ刺してしまえば残っているのは殺人という現実で。
「はあ……」
昨晩で胃液は吐きつくした。既に吐き気そのものはあっても、そもそも逆流する物質が無い。水すら飲んでいないので、胃の中にある空気だけが戻ってくる感覚。養護教諭は水を用意してくれるが、ソレを飲むのも躊躇するレベル。
「あ、あ、ああぁぁ」
殺したことへの後悔はあるらしい。けれど事実として、ネバダを殺さなければ須藤カーマに未来はなくて。アキラを寝取られる未来か。犯罪をおかしてでもアキラを守る未来か。どちらにせよ彼女はそこで終わっていただろう。どちらをとってもマイナスしかない。であれば結局どちらをとっても須藤カーマは壊れてしまって。
じゃあネバダを殺す方が、まだしも生産的だ、と思ってしまえば、それはそれで納得がいくらしい。人を殺して、その人生を終わらせて、それで幸せになれるなら、そっちの方がいいのではないかと。
教室に顔を出す元気はない。いつものみんなに人気な恋堕の天使を演じきれる自信が今の須藤カーマにはない。今ここにいて、調子が悪いというだけで殺人の容疑者の根拠になることさえ、彼女にとっては恐ろしい。
どうせ心配してくれる人間もいないだろうに。
「顔色最悪ね」
「だから調子が悪いんですって」
それ以上言わせるな、と養護教諭にヒラヒラと手を振る。徐々に土器色の顔も治ってくる。ポジティブに考えれば警察に捕まらない未来も無いでは無くて。そうしたら須藤カーマはアキラに告白してOKを貰い、百合的な青春を送ってキャッキャウフフする可能性もワンチャン。と思わないでもないらしい。
「水用意したけど……」
「後で頂きます」
いつもの軽やかな言葉遣いをする余裕も無く。コップに注がれた水を、そのままベッドに隣接している棚の上に置く。飲んだら吐く。その確信だけは確かにあって。
「私が調子見てるから寝てていいわよ」
女性の養護教諭がそう言って、そう言えば寝ていなかった、と今更気づく須藤カーマ。昨夜はトイレに張り付いて胃液を吐き続けるだけだった。調子が悪いのは睡眠不足もあるのだろう、と今更ながらに気付いたらしい。寝れば楽になる。少なくとも意識しないでいいだけ現実よりナンボか楽。悪夢さえ見なければ、と注釈はつくが。
「じゃあ寝ますんで。あと頼みます」
「さっさーい。お休み」
須藤カーマが昨日殺人をした。その事を知らない養護教諭は純粋に彼女を心配している。だから有難かった。人を殺したことをバレさえしなければ、これからも須藤カーマは幸せに生きられる。そのチャンスさえあれば、彼女は安易な夢を見れるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます