【― 路地裏の果てに】
第二十一章 ― 黒艶、再起 ―
海沿いの廃倉庫。
錆びた鉄扉を開け放てば、潮風に混じってスプレーの匂いが鼻を刺した。
壁一面には、黒光りする艶文字。
無骨な筆致でこう描かれている。
《怨血再臨》
田城蓮司はその前に立ち、紫煙を吐いた。
無造作に持った煙草の火が、暗闇に赤く浮かぶ。
「——昔の時代を知らんガキが、よう騒ぐもんじゃのう」
その声に応じるように、十数名の若者たちが並ぶ。だがその目には怯えもなく、獣のような光が宿っていた。
「《阿修羅》? 《絆狼》? 笑わせんな」
田城は煙を吐き捨て、ゆっくりと口角を上げた。
「喧嘩が流行っとるだけの時代じゃ。
昔の《黒艶》はな、恐れられとった。
名を聞いただけで膝が震えよった。……その頃の魂、まだここにおる。」
ざわめきが広がる。
倉庫の天井から滴る水音が、静かな鼓動のように響いた。
「お前ら、今日から“黒艶”じゃ。
従う気がねぇやつは帰れ。
だが残るなら——俺の下で、生き残る覚悟見せぇ。」
その眼光に射抜かれ、誰も動けなかった。
一人、二人と拳を握り、声を上げる。
「……ついて行きます、田城さん!」
「“黒艶”、もう一度見せたりましょうや!」
田城は笑った。
かつての総代、虎鮫欣也の面影を脳裏に浮かべながら。
「虎鮫さん……見とれ。
この街は、またアンタの黒で塗り潰してやる。」
倉庫の外では、エンジン音が鳴る。
夜が、再び狂気で彩られ始めていた。
第二十二章 ― ヤンキー狩りの夜 ―
夜の繁華街。
ネオンが落ちた裏通りで、数人の高校生グループがコンビニの明かりに照らされていた。
手持ち無沙汰にタバコを回し、笑い声が湿ったアスファルトに響く。
「なぁ、
ひとりが軽く笑いながら呟いた。
「もう昔の話じゃろ。あいつら潰されたんじゃなかったん?」
「いや——昨日、段原で“狩られた”ってよ。」
その瞬間、路肩に黒いバンが静かに停まった。
スライドドアが音もなく開く。
暗闇の中から、鉄パイプを握った影がいくつも降りてきた。
顔を布で覆い、黒い艶文字が背に刻まれている。
「“ヤンキー狩り”の時間じゃ。」
乾いた声が響いた瞬間、金属音と悲鳴が交錯する。
逃げる暇もなく殴られ、倒れた少年たちの背中に、
黒いスプレーが吹きかけられた。
《黒✕艶》
それは、かつて街を支配した名の復活宣言だった。
夜風にスプレーの匂いが混じり、繁華街の静寂を侵す。
⸻
数日後。
ニュースには一切流れない。
だが、街の空気は確実に変わっていた。
青工の生徒、暴走族、地元グループ。
“ヤンキー”と呼ばれる者たちが、次々と襲撃され、消息を絶った。
噂は広がる。
《黒艶》が帰ってきた。
そして——奴らは“復讐”ではなく、“支配”を始めている。
暴力が恐怖を生み、恐怖が服従を呼ぶ。
気づけば、黒艶の兵は百人規模に膨れ上がっていた。
「命令は、田城さんから直接だ。逆らったら次はお前が狩られる。」
そんな声が、裏路地のどこからか聞こえてくる。
夜の広島は、再び黒く染まり始めていた。
第二十三章 ― 絆狼と阿修羅、始動 ―
夜の港。
潮風が錆びた鉄の匂いを運び、遠くでフェリーの汽笛が鳴った。
NAGAMURA MOTORSの裏手、倉庫脇のスペースにバイクが並ぶ。
蒼也、勇哉、郁弥、謙哉
《絆狼》の面々が、無言のまま輪を作っていた。
郁弥がポケットからタバコを取り出し、火を点ける。
「……マジで“ヤンキー狩り”が出とるらしい。
青工の一年、十人まとめてやられたって。」
勇哉が眉をひそめた。
「黒艶の名、出とるんじゃろ?」
「ああ。壁に《黒✕艶》のスプレー。
しかも、手口がえげつねぇ。中には顔まで潰されとる奴もおるらしい。」
静かにバイクに凭れながら、蒼也が呟いた。
「……田城、か。」
勇哉が顔を上げる。
「知っとるんか?」
「うちの担任の蜂屋が言っとった。
九年前の《黒艶》の残党に、田城蓮司って男がおるって。
今は裏で動いとるらしい。」
空気が一段と重くなった。
謙哉が腕を組んで唸る。
「奴が動いとるなら、ただの喧嘩じゃ済まん。
暴力で“街”を取り戻すつもりじゃろう。」
勇哉が地面に唾を吐いた。
「上等じゃねぇか。
うちらが街守る。今度は、誰にも奪わせん。」
その言葉に、蒼也がゆっくりと頷く。
「……けど、今回は“うちら”だけじゃ足りん。」
郁弥が視線を向けた。
「他に誰を?」
蒼也は静かに言った。
「《阿修羅》。それと——《炉鯉一家》。」
その名に勇哉が息を飲む。
「炉鯉一家らを……?」
「過去に何があっても関係ない。
あいつらもこの街を見とる。
黒艶が広島をまた地獄に変えるなら、止められるのはうちらしかおらん。」
港の風が吹き抜ける。
波間に映る街の光が、どこか不安げに揺れていた。
——その頃。
《阿修羅》のガレージ。
和虎が壁に拳を叩きつけていた。
「黒艶? また古い名前出して、好き勝手やりやがって!」
智香が不安そうに彼を見つめる。
「……無茶せんでよ、和虎。」
「無茶せん言うても、黙っとれんわ。
“ヤンキー狩り”とか言うて、調子乗っとる。」
背後の扉が開き、國田蔵ノ介がゆっくりと姿を見せた。
「和虎。蒼也らが動き出した。
お前も——行け。」
和虎が目を細めた。
「共闘、ってことすか?」
蔵ノ介は無言で頷いた。
そして背を向けたまま呟く。
「この街の若い奴らが、また血を流すのは見たくねぇ。だが、止めるには戦うしかない。
……ワシも行く。」
港、街、路地。
それぞれの場所で、狼と修羅が動き出す。
新たな夜の火種が、静かに灯り始めていた。
第二十四章 ― 共闘の夜会 ―
港の外れ。
錆びた鉄骨がむき出しの廃工場に、三台のヘッドライトが交錯した。
最初に到着したのは《絆狼》。
蒼也はエンジンを切り、闇の中で煙草を踏み消す。
隣では花村勇哉が苛立つように腕を組み、郁弥と謙也が背を守るように立っていた。
金属音が響く。
廃工場のシャッターが軋みながら開き、黒いクラウンが滑り込んできた。
車体に映る“昇鯉”のエンブレム。
《炉鯉一家》。
流川紅葉がドアを開け、月光の下に姿を現した。静かな眼差し。
その背後には毛利慶真と呉原勝己。
炉鯉の幹部たちが黙って立つ。
空気が、さらに張り詰めた。
「……よう来たの。」
流川の声は低く、けれど鋭く響いた。
「阿修羅も、もうすぐ来る。」
まるでその言葉を待っていたかのように、爆音が遠くから迫る。
赤い光が尾を引き、廃工場の天井を震わせる。
《阿修羅》三代目、杉山和虎。
その背には、燃えるような阿修羅の刺繍。
和虎はバイクを横付けし、
ヘルメットを脱ぎ、金髪をかき上げながら言う。
「派手な夜会じゃの。黒艶が聞いたら笑うで。」
蒼也、そして流川と視線を送った。
その言葉に、流川が一歩前に出た。
「笑わせとけ。笑えるうちにな。」
場の空気が、瞬時に張り詰めた。
廃工場の冷気が肌を刺す。
流川が口を開く。
「……黒艶が再び動き出した。田城蓮司が仕掛けとる。
次の“狩り”の矛先は、絆狼、お前らじゃ。」
沈黙。
その一言で全員の表情が変わった。
和虎がゆっくりと煙草を咥える。
「うちの若いのも、二人消えた。……生きとる保証はねぇ。」
蒼也が口を開く。
「青崎のやつらも、数人おらんなった。……黒艶の仕業やろ。」
流川が頷く。
「せや。今夜は“抗争”の相談やない。“共闘”の確認じゃ。」
金属のテーブルを囲み、三人が向かい合う。
流川の冷静、和虎の闘志、蒼也の静寂——
三つの意志が、同じ一点に交わった。
蒼也が無言で頷く。
その目に宿るのは、怒りではなく覚悟だった。
流川は静かに右手を出す。
「これは“義理”でも“取引”でもない。
——魂を繋ぐ握手じゃ。」
「“路地裏の戦”は、ここから始まる。
敵は黒艶。標的は——田城蓮司。」
三人の拳が、闇の中で重なった。
その瞬間、倉庫の奥で風が鳴り、鉄骨が軋む。
まるで、過去の亡霊が再び息を吹き返したようだった。
夜の静寂を裂くように、誰かが呟いた。
「地獄の再演じゃの……。」
——広島の路地裏が、再び火を噴く夜が始まった。
第二十五章 ― 前夜、狼たちの誓い ―
海沿いの倉庫街に夜霧が立ち込めていた。
《共闘の夜会》から三日。
街の空気は張り詰め、いつ火がついてもおかしくないほどの緊張に満ちていた。
《黒艶》が支配する区域は、すでに広島南区の半分を越えている。
田城蓮司の号令のもと、元不良、落ちた走り屋、居場所を失った若者たちが“兵”として集まり、
街は再び、暴力と恐怖の檻に閉じ込められつつあった。
——その夜。
青工のグラウンドに、バイクのライトが次々と灯る。
コンクリートの壁にもたれ、蒼也が黙って一台ずつ見送る。
《絆狼》のメンバーだけでなく、他校の不良たちも集まっていた。
全員の顔に、怯えよりも決意の色が宿っている。
「ほんまにやるんか、これ。」
城島郁弥が笑いながら煙草をくわえる。
「広島全域のヤンキー集めて“黒艶”潰すとか、漫画みたいじゃろ。」
「漫画でも、誰かが立たにゃ始まらん。」
永村謙哉が短く答えた。
「うちは、あいつらに好き勝手はさせん。」
その時、門の外から足音が響く。
青工の制服に身を包んだ、屈強な男が歩み寄ってきた。
背筋はまっすぐで、年齢を重ねても衰えぬ眼光。
校章の上から革ジャンを羽織り、灰色の髪が風に揺れる。
——菊永勇司。
青崎工業を束ねる漢。
その背を見た瞬間、グラウンドのざわめきが止んだ。
「暴力で奪う奴らは、いずれ暴力で奪われる。
それでも——立たにゃ守れんもんがある。
今の《黒艶》は、筋も誇りも捨てとる。」
勇司の声が静かに響く。
その言葉に呼応するように、仲間たちの間に火が灯っていく。
「……うちは行くで。」
蒼也が前に出た。
視線をまっすぐ勇司にぶつける。
「《絆狼》の名前で、この街をもう一度“正義の場所”に戻す。
そのためなら命も惜しゅうない。」
勇司はゆっくりと煙を吐き出し、口角をわずかに上げた。
「よう言うたな、蒼也。
それでええ。——“正義”は誰かに任すもんじゃねぇ。自分らで掴むもんじゃ。」
そのとき、グラウンドの奥から低いエンジン音が重なった。
《阿修羅》の一団が現れる。
先頭を走るのは、三代目総長・杉山和虎。
その隣には、流川紅葉率いる《炉鯉一家》の車列も並ぶ。
まるで、時代がひとつの場所に集うような光景だった。
和虎がヘルメットを脱ぎ、軽く顎をしゃくる。
「遅えぞ、蒼也。——狼が眠っとったんか。」
「狼は夜に動く。」
蒼也が短く返す。
そのやり取りの間にも、流川は無言で二人を見ていた。
黒のロングコートの裾を揺らしながら、ゆっくりと前へ出る。
その眼は夜霧の中でも異様なほど冷たく光っていた。
「今夜を境に——“黒艶”の息の根を止める。
誰が先に立つかは問わん。
ただし、筋を違えた者は容赦せん。」
その言葉に、誰も返さなかった。
沈黙こそが、この場に集まった全員の覚悟だった。
勇司がポケットから小さな金属板を取り出す。
それは、青工の創立時代から受け継がれている“誓いのプレート”——
仲間の名を刻み、共に戦った証として残されるもの。
勇司はそれを地面に置き、靴で砂を払った。
「こいつに、名を刻もうや。
——《絆狼》《阿修羅》《炉鯉一家》《青崎工業》——
四つの旗で、ひとつの道を作る。」
蒼也がナイフを受け取り、地面に刃を突き立てる。
鋭い音が夜に響き、全員の心臓を貫いた。
「……“黒艶”を終わらせる。」
和虎も続けて手を伸ばす。
「“阿修羅”の名にかけて。」
流川が短く息を吸い、静かに言った。
「“誇り”のために。」
そして最後に、勇司が拳を握りしめる。
「“青工”の誇りと、俺らの未来のために。」
四つの拳が重なった瞬間、誰かが小さく呟いた。
「——狼は、もう眠らん。」
港から吹き抜ける潮風が、旗を大きくはためかせた。
その夜、広島の夜空に、新しい火が灯った。
《黒艶討伐》——決戦の幕が、静かに上がろうとしていた。
西区・西埠頭。
黒レンガ倉庫の空が、紅く染まっていた。
鉄とオイルの匂いが混ざり、夜は地獄の底みたいに燃え上がる。
――火花、怒号、排気音。
《絆狼》《阿修羅》《炉鯉一家》《青工》。
四つの意地がぶつかり合い、倉庫が震えた。
「押せぇッ!」「ぶっ潰せぇ!」
「逃がすなコラァ!」
黒艶兵が怒鳴り、鉄パイプが唸る。
火花が飛び、バイクのライトが煙を裂く。
地面は血とオイルで滑り、
誰が敵かも分からねぇまま、拳が交錯する。
――広島の夜が、咆哮で染まっていた。
「押し返せぇッ!!」
花村勇哉の咆哮が、火花混じりの夜を切り裂いた。
黒レンガ倉庫の中庭。鉄パイプと拳がぶつかり合い、火花と怒号が飛び交う。
《絆狼》《阿修羅》《青工》――それぞれの誇りが地獄の業火みたいに燃え上がっていた。
勇哉の拳が一閃。黒艶兵の顔面を捉え、骨の砕ける音が響く。
「こらぁ、下向いとる暇あるかッ!! 立てぇや、次行くぞ!」
振り返ると、郁弥がバットを構えながらニヤリと笑う。
「おう、こっちはバット一本で野球中じゃ。三振とらすけぇの!」
フルスイング。金属音と共に敵が宙を舞う。
「どけどけぇ、危ねぇけぇ!」
永村謙哉がモンキーを片手に突っ込む。鉄パイプを受け止め、そのまま肘で相手の喉を突く。
「パイプぐらいで威張んなや。うちは現場仕事で鍛えとんじゃ!」
モンキーの柄で顎を突き上げ、倒れた敵を一瞥して吐き捨てた。
その横を、青工の幹部・前田鉄太が跳び上がる。
「舐めんなよォッ! 青工なめたら歯ァ全部持ってかれるけぇのッ!!」
アクロバティックな身のこなしで敵を蹴り飛ばし、鉄太は着地しながら叫ぶ。
「一年でも幹部は幹部じゃけぇなァッ!」
「元気ええのぉ、お前!」郁弥が笑いながら次の敵を蹴り飛ばす。
「動き軽すぎて見えんわ!」
「こっちこそ年寄りくせぇんじゃ、腰いわすなよ!」
「誰が年寄りじゃボケェ!」
その横で勇哉が敵の腹に膝を突き刺し、ドスの効いた声で唸る。
「ガタガタ抜かす暇あったら、手ぇ動かせやァッ!!」
「了解、隊長ッ!」
鉄太が笑いながら後方の敵を蹴り飛ばし、謙哉がモンキーで追撃。
「よっしゃ、整備完了じゃ!」
「おう、次の部品もいくで!」郁弥のバットが再び火花を散らした。
倉庫の床に血と油が混じり、煙が立ちこめる。
拳がぶつかるたび、火花が散るたび、夜が震える。
――それでも、四人の声だけは、確かに響いていた。
倉庫の南側。
鉄の匂いと油煙が立ち込めるなか、毛利と呉原が背中合わせに立っていた。
その前に立ちはだかるのは、黒艶幹部の白島と舟入。
互いに一歩も引かぬまま、視線だけで火花が散った。
「へぇ、炉鯉の坊ちゃんが二人揃い踏みかよ。」
白島がパイプを肩に担いで嗤う。舟入は拳を鳴らし、唇を吊り上げた。
「出所してからおとなしくしとったらしいのぉ。老いぼれたか?」
呉原がゆっくり手袋を締めながら、薄く笑った。
「慶真さん、口ばっか動かしよる奴らに構うだけムダじゃろ。」
毛利は視線を外さず、低く呟く。
「口で鳴くうちはええ。拳で泣かせりゃ静かになるけぇの。」
次の瞬間、呉原が一気に踏み込む。
パイプが唸り、火花が飛ぶ。白島の一撃を紙一重で避け、呉原の拳が鳩尾を抉る。
「ほら、立っとけや!」
白島が唾を飛ばしながらパイプを横薙ぎに振り抜く。
ガンッ! 衝撃音が響き、呉原の腕が痺れる。だが退かない。拳を握り直して顔面へフックを叩き込む。
白島の顎が跳ね、壁に頭を打ちつけた。
一方の毛利は舟入と真正面からぶつかっていた。
舟入が突進してくるのを冷静に受け止め、肘で顎を上げる。
「静かにせぇ。……ここはもう終わっとる。」
その声が低う響いた瞬間、舟入の体が横に吹っ飛んだ。
じゃが、すぐ立ち上がって鉄パイプを握り直す。
「てめぇらァ……舐めんなやコラァ!」
怒鳴りながら突っ込んでくる舟入。毛利は半歩引いてかわし、鳩尾に拳をぶち込んだ。
鈍い音が響き、舟入が膝をつく。
「さすがじゃのう、慶真さん!」
呉原が笑いながら呼ぶ。
その背後、白島が再び飛びかかってきたのを、毛利が一瞬で察して蹴り飛ばす。
呉原がすかさず白島の腹に膝を突き上げ、顎に右ストレートを叩き込んだ。
「ほら見てみぃ、口ばっかじゃ勝てん言うたじゃろが。」
白島が崩れ落ち、舟入が怒号を上げて再び突進する。
「おどれら、まとめてぶっ潰したるけぇなァ!」
毛利が静かに一歩前へ出て、低く呟いた。
「……吠える前に、立つ足見てみぃ。」
掌底が唸りを上げ、舟入の胸を正確に撃ち抜く。
「ぐはッ──!」
その一撃で舟入の体が吹き飛び、鉄骨の壁に叩きつけられた。
鈍い衝撃音とともに、倉庫の空気が一瞬止まる。
呉原が鼻で笑いながら、拳を軽く振った。
「……慶真さん、やっぱ容赦ねぇのぉ。」
毛利が息を吐いて答える。
「お前が手ぇ抜かんけぇ、ワシも抜けんのんじゃ。」
「ほぉじゃけど、敵さんが泣いとるで。」
「泣く暇あるなら、立ちゃえぇ。」
ふたりの声が、静かな倉庫に小さく響いた。
二人は軽う拳を合わせ、血と埃まみれの倉庫を後にする。
背中の“昇鯉”の刺繍が、燃え残る炎の中でゆらゆらと揺れておった。
一方、倉庫の北側。
菊永勇司は、黒艶幹部・江波と真正面からにらみ合っとった。
周囲は鉄の臭いと焦げた油煙。
誰も口を開かん。
金属がぶつかる乾いた音だけが、倉庫の壁を震わせとる。
江波が舌打ちした。
「青工の番長が、ガキどものケツ持ちか。落ちぶれたのぉ。」
勇司は表情ひとつ変えずに答える。
「黙れや。お前らみてぇな筋通さん奴が、いっちゃん気に食わん。」
江波がパイプを振り下ろす。
勇司はそれを片腕で受け止め、体ごと押し返した。
「理不尽が嫌いなんじゃ、ワシは。」
拳が閃き、江波の顔面を正面から打ち抜く。
「ぐはっ──!」
鉄の床に崩れ落ちる江波。その上から、勇司が無言で見下ろす。
「……けぇの、正義で殴っとるわけじゃねぇ。ただ、筋を通しとるだけじゃ。」
その声は低く、静かで、倉庫の中で誰よりも重う響いとった。
東の通路。
薄暗い蛍光灯の下で、和虎と国泰寺が対峙しとった。
空気が張り詰める。次の瞬間、ドンッ──。
「お前らみたいな奴らが街を腐らせとるんじゃ!」
国泰寺の拳が振り抜かれる。
だが、和虎は微動だにせん。鼻で笑い、首を少しだけ傾けた。
「腐っとるんは街やのうて、てめぇの魂じゃろが、ボケェ。」
その言葉と同時に、拳が閃く。
ドゴッ──。国泰寺の顔面に重い一撃。
膝が砕け、視界が揺れる。
さらに和虎は一歩踏み込み、鳩尾へ肘を叩き込む。
「立てぇや。阿修羅の名、舐めんなよ。」
国泰寺が呻き声を漏らす間もなく、顎へアッパー。
そのまま地面に崩れ落ちた。
和虎は息一つ乱さず、無表情で言い捨てた。
「……秒で終わるんが、お前らの“正義”の限界じゃ。」
鉄の床に、国泰寺の拳が虚しく転がった。
――戦場は、紅に染まる。
乱戦の只中、ひときわ異様な“圧”が倉庫二階に現れた。
黒いロングコート。
190cmを超える巨体。
犬飼悦司。
“黒豹”と呼ばれた男が、手すりを静かに飛び降りる。
その着地音は、まるで地を砕く獣の咆哮のようじゃった。
蒼也と流川が同時に顔を上げる。
蒼也の足元に、火花がパラリと散る。
犬飼が、低く静かに言い放った。
「田城の命令じゃ。
お前らの“正義”、ここで潰したる。」
蒼也の目が細く光る。
「……命令で動く正義なんか、腐っとるだけじゃ。」
「ほぅ?」犬飼が低く笑った。
「理屈はええ。生き残った方が“正義”じゃけぇの。」
瞬間、黒豹の拳が空を裂いた。
蒼也がギリギリでかわし、背後の鉄骨が粉々に弾け飛ぶ。
流川が間髪入れず踏み込み、犬飼の懐に鋭く蹴りを入れる。
だが、巨体はびくともせん。
拳と拳がぶつかるたび、倉庫全体が軋む。
犬飼の連撃に蒼也が防戦、流川が一瞬の隙を狙う。
「ほぅ……二人で来るんか。」
犬飼の口元がわずかに歪む。
「なら、二人まとめて──沈めたる。」
蒼也が息を吐き、流川に視線を送る。
「流川、今じゃ。」
流川が軽く頷いた瞬間、床を蹴る。
崩れた鉄骨を足場に、一段、二段──
まるで月を駆けるように跳ね上がる。
宙で身体をひねり、
砕けた蛍光灯の破片をすり抜けながら、
天井の梁を一瞬だけ掴んで反動をつけた。
「──おるぁッ!」
回転。
重力を味方に変えた三百六十度の反転蹴り。
落下の勢いすべてを乗せ、犬飼の側頭部を薙ぎ払った。
轟音。
巨体が宙を舞い、床を滑って鉄骨の柱に激突した。
鈍い金属音を最後に、動かん。
着地した流川のコートが、炎の風にふわりと揺れる。
右足の靴底からは、煙が細く立ちのぼっていた。
蒼也が目を細め、静かに言った。
「……黒豹でも、獣は獣か。」
流川が肩越しに呟く。
「誇りのねぇ牙は、折れる運命じゃ。」
蒼也が犬飼の倒れた影を一瞥し、背を向ける。
「行くぞ。ここはもう終わりじゃ。」
燃える倉庫の中、二人の影だけが、まっすぐに立っとった。
――倉庫の外。
崩れ落ちる鉄骨と、焦げたオイルの臭いが夜風に混ざる。
それぞれが、地を這う。
もう、立ち上がる者はいない。
和虎が手の甲で血を拭い、息を吐いた。
「……終わりじゃの、黒艶。」
勇哉が肩越しに呟く。
「いや、まだおるじゃろ。田城が。」
炎が倉庫の内部を照らす。
中では蒼也と流川が、犬飼悦司を沈めた直後だった。
「蒼也ァ!」
勇哉の声が響く。
その声に振り向いた蒼也の視線の先、
煤と血にまみれた仲間たちが、ひとり、またひとりと姿を現す。
謙也が蒼也の肩を軽く叩いた。
「……やったのぉ、蒼也。」
「遅う来たのぉ。」蒼也が薄く笑う。
和虎が煙草を投げ捨て、足で踏み消す。
「雑魚共は片付いた。残っとるんは田城だけじゃ。」
満身創痍の仲間たちが、倉庫中央へと集結した。
血に染まった手を重ね、背を預け合う。
炉鯉の紋、絆狼の狼、阿修羅の梵字。
それぞれが違う道を歩んできた者たちの影が、
ひとつの月明かりの下で重なった。
蒼也が静かに呟く。
「ここで、終わらす。」
その言葉に、誰もが無言で頷いた。
夜風が吹き抜け、焼けた鉄の匂いの中で、
戦場は、次の“決着”へと動き出した。
その時――奥の闇が、蠢いた。
焦げた鉄骨の陰から、ゆっくりと一人の男が歩み出る。
煤けたスーツに、血を滲ませた拳。
田城蓮司。
炎の光がその顔を照らした瞬間、
流川の瞳が細く鋭く光る。
「……やっぱり出てきたか、田城。」
田城は唇の端を吊り上げ、拳を軽く鳴らした。
「懐かしいのう、流川。
九年前、あの夜も……お前の拳がこうして燃えとった。」
次の瞬間、田城の拳が閃く。
流川の脇をすり抜け、蒼也の腹を抉った。
「ッ──!」
蒼也が吹き飛び、鉄骨に叩きつけられる。
鈍い音が響き、床に膝をつく。
「……懐かしい顔ぶれじゃのう、流川。」
田城が吐き捨てるように笑い、
その目に燃えるような憎悪を宿す。
流川は血を拭い、静かに立ち上がった。
「罪は、まだ燃えとる。
終わらすのは――この手じゃ。」
毛利が低く言葉を落とす。
「……流川。ええかげんに、こいつともケリつけぇ。
“和”を汚すもんは、もう見逃せんけぇの。」
呉原が拳を握り、田城を睨みつける。
「おう田城。おどれが何背負っとろうが関係ねぇ。」
田城の眉がピクリと動く。
「その手で燃やした命、忘れとらんじゃろうな。」
流川が静かに応えた。
「忘れとらん。けぇこそ――燃やし尽くす。」
その言葉と同時に、蒼也がゆっくりと立ち上がる。
割れた唇の端に、獣のような笑み。
「……まだ終わっとらん。
ここで倒れたら、《絆狼》は二度と走れんけぇ。」
流川と蒼也が並び立ち、
その背を毛利と呉原が支えるように構える。
炎が四人の背を照らし、田城の足元へと伸びた。
――宿命の夜が、再び交わる。
田城が踏み込み、床が爆ぜた。
巨岩のような拳が、まっすぐ流川の顔面を狙う。
空気が唸り、炎が一瞬で吹き散った。
流川は紙一重でかわし、返す拳を田城の頬に叩き込む。
しかし田城は怯まない。むしろ笑った。
流川の目が、わずかに光を細める。
「お前に正義は語らせん。人を潰して積んだ椅子の上でしか立てん奴に、“頂”の景色なんか見えるわけがない。」
火花が散り、拳と拳がぶつかる。
田城の腕力が勝る。流川の身体が吹き飛びかけた瞬間――
背後から蒼也が一歩、前へ出た。
燃える床板が軋む音の中、彼は流川を庇うように立つ。
「……もう、あんたの時代は終わっとる。」
低く静かな声だった。
「壊すだけの拳なら、ここにはいらん。」
その言葉に田城の眼光が、蒼也に突き刺さる。
「ほぅ、これが《絆狼》の若造か。
流川の尻尾振っとる子犬じゃと思うとったが――
牙ぐらいはあるらしいの。」
蒼也は吐き捨てる。
「牙は、守るために使うんじゃ。」
田城の表情が一瞬だけ曇った。
九年前、流川に殴り倒された夜の記憶が、
炎の中で蘇る。
流川が踏み込む。
「田城――もう楽になれ。」
その声と同時に、流川の蹴りが田城の胸に突き刺さった。
田城の体が仰け反る。
「……流川ァ……」
血混じりの笑い。
「お前が……“終わらせる”んか……この地獄を……」
流川は答えん。ただ、拳を握ったまま目を閉じた。
蒼也がその横に立つ。
「あんたの時代は、もう終わりじゃ。」
田城の体が崩れ、鉄骨の上に沈む。
炎が再び燃え上がり、倉庫の天井を紅く染めた。
流川の拳がわずかに震える。
毛利が近づき、低く言う。
「……祈れ、紅葉。終わりじゃのうて、“始まり”にせぇ。」
流川は小さく頷いた。
「和を護るために、暴れた拳じゃ。
なら、次は……この手で守る。」
蒼也が静かに言う。
「――《絆狼》も、《炉鯉》も、同じ道じゃけぇ。」
炎が静かに消えていく。
倉庫跡には、風に揺れる鉄骨の音だけが残った。
夜が明ける。
血と煙の匂いの中で、新しい時代が息をした。
夜明けの光が、崩れた倉庫の隙間から差し込んでいた。
まだ焦げた鉄骨が軋み、空気には血と油の匂いが残る。
流川はその光を見上げながら、深く息を吐いた。
拳をゆっくり開くと、血が乾いてひび割れていた。
「……終わったんかのう。」
呉原が呟くように言った。
だが、その声にはどこか、抜け殻のような響きがあった。
毛利がその肩を軽く叩く。
「終わりは、誰かが引き受けにゃいけん。
それが“流川紅葉”の宿命じゃったんじゃろ。」
流川は答えず、ただ目を閉じた。
――九年前、少年院の鉄格子の向こうで見た朝焼けが蘇る。
あのときの誓い。
「もう、誰もこんな地獄を見せん」
その言葉だけが胸の奥でまだ熱を帯びていた。
ふと隣を見ると、蒼也が拳を拭っていた。
彼の視線は静かに未来を見据えている。
「……あんたがいたけぇ、うちらはここまで来れた。」
蒼也の声は低く、真っ直ぐだった。
「この先は、うちらの番じゃ。」
流川はわずかに笑う。
その笑みは、どこか寂しく、そして誇らしかった。
「そうか。……なら、ええ。」
「《絆狼》は走れ。うちら《炉鯉》は見届けるだけじゃ。」
その言葉に、蒼也は静かに頷いた。
毛利と呉原も後ろで肩を並べ、燃え尽きた倉庫を一度だけ振り返る。
――灰の中に、まだ微かに残る“炎の跡”。
それは憎しみの残骸ではなく、“繋がり”の証だった。
流川が最後に呟く。
「阿修羅も、黒艶も、炉鯉も……全部、通ってきた道じゃ。
けどもう、拳で語る時代は終わりじゃの。」
朝日が完全に昇り、港の向こうでカモメが鳴いた。
潮風が血の匂いを消していく。
蒼也はその風を感じながら、バイクのキーを回した。
「行こうや。《絆狼》の道を。」
エンジンの音が再び夜明けの街に響く。
それは戦いの終わりを告げる音ではなく――
新しい時代の始まりを知らせる、狼たちの咆哮だった。
――数日後。
広島県内の病院、夜。
消灯した病室に、足音がひとつ。
包帯で巻かれた田城蓮司は、眠っているように天井を見つめていた。
扉がきぃ、と軋む。
入ってきた男は、黒いフードを深く被っている。
「……如月、千早。」
田城の唇がわずかに動いた。
「お前が、来るとは思っとった。」
千早は黙ったまま、ベッドの脇に立つ。
「流川は、あんたを殺さんかった。
けど……うちは、人間のままじゃ終われん。」
田城はうっすら笑った。
「お前は……また地獄へ戻るんか。」
刃が閃く。
音もなく、血が白いシーツを染めた。
千早は振り返らない。
ただ一言だけ残して、病室を去った。
「――これで、終いじゃ。」
――翌朝。
ニュースが流れる。
《元黒艶幹部・田城蓮司、入院先で死亡》
《如月千早、殺人容疑で逮捕》
流川はその報道を無言で見つめ、
流川はゆっくりと目を閉じる。
「戦い続ける神、か。
なら、俺らは――その跡を継ぐだけじゃ。」
外では、夜明けの光が差し始めていた。
《絆狼》と《炉鯉》の旗が、同じ風に揺れている。
RIDE OR DIE ちくわぶ。 @saksakpanda21
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