結婚、したいですか?
夜。
実家からの帰り道、すっかり暗くなった街を抜けて、恭弥の家へ戻る途中。
車の中では、ずっと沈黙が続いていた。
蒼は助手席で、何度も何度も視線を恭弥に向けかけては、結局うつむいてしまう。
胸の奥が、そわそわと落ち着かない。
ずっと引っかかっていた。
部屋に戻り、二人でコートを脱いだあとも、蒼の表情は晴れなかった。
恭弥はそんな蒼の様子に気づきながら、黙ってマグカップにお茶を注ぐ。
やっと、蒼が小さな声で切り出した。
「……恭弥さんは、結婚……したくないんですか?」
その瞬間、恭弥の手が止まった。
湯気の立つマグカップをテーブルに置き、ゆっくりと蒼に目を向ける。
「……どういう意味だ、それは」
低く静かな声。
まるで空気の温度が一段下がったような圧を感じて、蒼はびくりと肩を揺らした。
「い、いえ……っ、その……!」
「ちゃんと説明しろ」
逃げ場を塞がれたようなその声音に、蒼は唇を噛む。
けれど、意を決してぽつぽつと言葉を繋いだ。
「だって……お義母さんが結婚の話をすると、いつも“やめろ”とか“今じゃない”って…、だから、恭弥さんは、僕とは……そういうこと、考えてないのかなって……」
恭弥の眉がぴくりと動いた。
「……逃げてるつもりはないし、そんなこと言った覚えはない、捏造するな。」
「で、でも……」
「俺は“話の勢いを止めた”だけだ」
恭弥はゆっくりと近づく。
そして、蒼の前に立ち止まると、まっすぐに視線を合わせた。
「誤解するな、蒼。俺は、お前と結婚したくないわけじゃない」
その言葉に、蒼の目が大きく見開かれる。
恭弥は少し息を整え、言葉を続けた。
「むしろ、したい。真面目に考えてる。……ただ、お前の気持ちを置き去りにしたまま、あの勢いで話を進めるのは違うと思っただけだ」
「恭弥、さん……」
「お前は俺にとって、誰よりも大事な人間だ。
だからこそ、軽い流れで決めたくない。
だがな、俺は本気で、お前を生涯の伴侶にしたいと思ってる。」
その声は穏やかで、それでいて真っ直ぐだった。
冗談の欠片もない、いつもの冷静な恭弥の声。
蒼はしばらく何も言えず、ただその場に立ち尽くす。
耳まで真っ赤に染まり、目の奥がじんわりと熱くなる。
「そ、そんな風に……言われたら、恥ずかしいです……」
ようやく搾り出すようにそう呟くと、恭弥の唇がわずかに緩んだ。
「お前が変な誤解するからだ」
そう言って、恭弥は蒼の頬に手を添えた。
蒼はびくっと体を震わせるが、逃げずにその手に頬を寄せる。
「……じゃあ、僕と……結婚したいって、本当に……?」
「本当に」
即答。
蒼の視線が揺れ、唇が震える。
やがて小さく笑い、恥ずかしそうに目を伏せた。
「……うれしいです」
「なら、もう二度とそんな顔するな」
「……はい」
恭弥の掌の温度に包まれながら、蒼はその夜、初めて安心したように微笑んだ。
恭弥が「本気でお前を生涯の伴侶にしたい」と言ったあの言葉。
蒼の胸は、ずっと熱を帯びたままだ。
ふと、蒼が小さく息を吸い込む。
「……恭弥さん」
「ん?」
「それ……もう、プロポーズしてませんか?」
その言葉に、恭弥の肩がわずかに動いた。
一拍の間を置いて、低く息をつくように返す。
「……確かに、そう聞こえるな」
言った本人が少し照れくさそうに視線を逸らした。
その顔が珍しくほんの少し赤くなっているのを見て、蒼は思わず笑ってしまう。
「……でも」
恭弥が照れ隠しのように言葉を続けた。
「指輪がないから、ノーカウントだな」
その言葉を聞いた瞬間、蒼が「ちょっと待ってください」と言ってソファから立ち上がる。
恭弥が目で追うと、蒼は近くのテーブルにあったティッシュ箱を手に取った。
何をするのかと思えば
蒼は器用にティッシュを細長くねじって、輪にしていく。
くるくると指先を動かして、やがて小さな“紙の指輪”がふたつ出来上がった。
「……なんだ、それ」
「えっと……代わりです」
蒼は恥ずかしそうに笑って、そのティッシュの輪を恭弥に手渡す。
「これでカウントしてくれますか?」
そう言って、蒼はそっと左手を差し出した。
その仕草があまりにも真っ直ぐで、少し震えていて
恭弥は一瞬、息を飲んだ。
「……お前、ほんとに……よく、そういうこと思いつくよな」
そう呟きながら、受け取ったティッシュの輪を見つめる。
ふざけているようで、けれどふざけていない。
白い輪が、妙にまぶしく見えた。
「……いいだろう。カウントしてやる」
恭弥はわずかに微笑み、蒼の左手を取って、ゆっくりとそのティッシュのリングを薬指にはめた。
「これで、暫定だ」
蒼の頬がぱっと赤くなる。
けれどすぐに、今度は自分の指にももうひとつの輪をはめて、微笑んだ。
「……じゃあ、おそろいですね」
恭弥はしばらくその小さな輪を見つめてから、蒼の頭を軽く撫でる。
「正式な指輪は、ちゃんとしたもので渡す。
でも……」
「でも?」
「今は、これで十分だな。」
蒼の胸がまたあたたかくなる。
指先のティッシュの輪が、どんな宝石よりも大切に思えた。
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