クッションにキス
息が落ち着く頃には、部屋の中に笑いの余韻だけが残っていた。
ソファにもたれた恭弥の胸に、蒼が寄りかかる。
まだほんのり赤い頬を両手で押さえながら、ぽつりと呟いた。
「……こんなに恭弥さんに触られたの、初めてです」
恭弥の指が止まる。
蒼から手を離し、ゆっくりと呟く。
「嫌だったか?」
少しだけ、ためらいを含んだ声。
蒼はすぐに首を振る。
「違います。そうじゃなくて……」
唇を噛みしめて、視線を落とす。
「付き合ってから、あんまり恋人らしいこと、してないなって思って……もう半年なのに」
そう言って近づく、恭弥の胸元に触れる手。
その言葉と行動に、恭弥の目が細くなる。
そして、小さく息を吐いて、蒼の頬に触れた。
「…やめとけ」
「……え?」
「無理してるだろ」
その声は静かだった。優しいけど、どこか線を引くような響きがあった。
蒼の指が小さく震える。
「無理なんて……してないです」
唇を尖らせながら、目を潤ませる。
「せっかく、色々しようと思ってたのに……」
それでも恭弥は動かない。
むしろ、そっと蒼の髪を撫でて
まるでなだめるように、目を伏せた。
「今日はもう休め」
その一言に、蒼の胸がちくりと痛んだ。
唇をきゅっと結んで、ぷいと顔を背ける。
「……もういいです。恭弥さんなんて知らないです」
「は?」
恭弥が少し眉を上げる。
だが蒼は、勢いのまま言葉を続けた。
「もう恭弥さんにキスなんてしません!」
一瞬の沈黙。
恭弥の唇の端が、わずかに動く。
「……お前からのキスは付き合った日以来してくれてないだろ」
低い声が、じわりと空気に滲む。
「その一回きりだろ」
「っ……そ、それは……」
蒼の顔が一気に赤くなった。
「だって……恥ずかしいから……!」
小さく握った拳を膝の上でぎゅっと握りしめる。
「そういうこと、言わないでください……」
恭弥は堪えきれず、ふっと笑った。
「ふ、事実を言っただけだ」
「もう!笑わないでください!」
蒼は涙の跡を残したまま頬をふくらませ、拗ねたように背を向ける。
恭弥はその後ろ姿を見つめながら、小さくため息をついた。
「……ほんとに可愛いな、お前」
その呟きは、蒼には届かなかった。
蒼はずっとぷりぷり怒りながら恭弥に背を向ける。
「……なぁ、もっかいチャンス、くれよ」
小さく息を吐いて、恭弥がまた蒼に顔を寄せた。今度こそ軽い口づけで許してもらおうとしたのかもしれない。
けれど蒼は、その胸をグイッと押し返す。
「もう知らないです!」
頬を赤くしながら、ぷいと顔を背ける。
「そんな簡単に許すわけないでしょうっキスしたいなら、そのクッションにでもしてください!」
ソファの端に転がっていたクッションを指さす蒼。
恭弥は一瞬きょとんとして、それから苦笑もせず、少しだけ眉をひそめた。
「……わかったよ」
恭弥は低くそう言うと、ソファの上のクッションをひょいと手に取った。
そのまま蒼の目の前で、ためらいもなく唇を押し当てる。
「ほら。これでいいだろ」
少しだけ意地の悪い笑みを浮かべて、恭弥は顔を上げた。
「……今度はお前の番」
「え?」
蒼が目を瞬かせる間に、恭弥はクッションを脇に放り投げ、蒼の方へ身体を寄せた。
「俺に、させて」
「ちょ、ちょっと待ってくださいってば」
蒼は慌てて手で胸を押し、イヤイヤと首を振る。
それでも恭弥は止まらない。顔が近づくたびに息が詰まって、蒼の背が、手首がソファに押しつけられていく。
「……恭弥さっ、もうやめっ」
抵抗しようと両手で押し返すも、力の差は明らかだった。
とうとう足まで使って暴れる。
「は……っ」
鈍い音がして、恭弥の身体が一瞬びくりと跳ねた。
蒼の足先が、ちょうど鳩尾に入ったのだ。
ほんのかすり程度
それでも、息が詰まるほどの痛みが走る。
「くっ……」
恭弥は呻き声をこらえながら、唇を噛んだ。
痛みの奥に、苛立ちが滲む。
ぐっと眉間に皺が寄るのを、蒼は怯えたように見上げた。
「ご、ごめんなさい…ごめんなさい!だって本当に……」
言葉が震えて途中で途切れる。
恭弥は息を整えながら、しばらく黙り込んだ
「……本当、ごめんなさいっ恭弥さん……」
蒼は青ざめた顔で恭弥の前に膝をつき、震える声で言った。
「あの、キスしていいから…許してください……」
恭弥は痛みを押さえながら、ゆっくりと顔を上げる。
「それは違うだろ」
低い声が部屋の空気を締めつけた。
「そんな言い方じゃ、俺が無理やりさせてるみたいになる」
「そ、そんなつもりじゃなくて……」
蒼は涙をこらえながら首を振る。
「じゃあ、どうしたら、蹴ったの…許してくれますか……?」
恭弥はしばらく黙り、深く息を吐いた。
「とりあえず、冷やすもの持ってこい」
「はいっ」
蒼は慌てて立ち上がり、冷凍庫から保冷剤を取り出して戻ってきた。
恭弥はシャツの裾を少し持ち上げて、鳩尾のあたりにそれを押し当てる。
じん、とした痛みがまだ残っている。
蒼は隣でずっと小さく息を呑んで、申し訳なさそうに俯いていた。
時間が少しだけ経って、
痛みがようやく落ち着き始めた頃。
「もういい。そこまで気にすんな」
恭弥がそう言いかけた瞬間
「……っ」
蒼が身を寄せた。
驚くほどそっと、恭弥の鳩尾に唇が触れる。
「……早く、よくなってください…」
一瞬、思考が止まった。
恭弥は息を呑んだまま動けず、視線だけが蒼を見つめていた。
唇の感触が、さっきまでの痛みよりもずっと強く残る。
「……お前、何してんだ」
やっとのことで声を出すと、蒼は顔を真っ赤にして俯いた。
「……治るようにって」
恭弥の口元がかすかに引き攣る。
怒りはもう残っていない。
代わりに、どうにも扱いきれない照れが喉元までせり上がっていた。
「……そんなことされたら怒れないだろうが。」
口から出た言葉は、思っていたよりも低く、かすれていた。
けれど蒼はその声音にびくりと肩を揺らす。
恭弥は眉をひそめる。
まだ怯えている。
たかが口論の延長で、そんな顔をされるほど怒ったつもりはなかったのに。
「……おい」
呼びかけても、蒼は顔を上げない。
指先をぎゅっと握りしめたまま、小さく震えている。
恭弥は息を吐いた。
苛立ちではない。
けれど、どう声をかければいいのかもわからない。
しばらく黙ったまま、保冷剤を外してテーブルに置く。
「ほら、もう平気だ」
そう言っても蒼は反応しない。
恭弥はため息をひとつ落とし、立ち上がると、蒼の前に膝をついた。
俯いたままの顔を覗き込む。
「……顔、上げろ」
ゆっくりと、蒼が視線を上げた。
涙の跡が残っていて、怯えた瞳が揺れている。
恭弥はそれを見て、苦く笑った。
「俺が、そんなに怖いか?」
蒼は小さく頷く。
「……ちょっと、です」
「ちょっと、ね」
恭弥の声がかすかに掠れた。
手を伸ばしかけて、ためらう。
触れたら、また怯ませる気がして。
「怒ってたのは、蹴られた時だけだ」
「……ごめんなさい」
「謝んなくていい。…次から気をつけろ」
「……恭弥さん」
呼び止める声はかすれていた。
「まだ、怒ってますか」
恭弥は少しだけ振り返り、目だけで見た。
「怒ってない。ただ、お前が怖がるのは、ちょっと堪える」
蒼は言葉を失って、ただ俯いた。
その沈黙の中、恭弥は再び息を吐き、視線を逸らした。
恭弥が立ち上がろうとした、その瞬間だった。
蒼が突然、手を伸ばして彼のシャツの裾を掴んだ。
「……蒼?」
呼ばれても、蒼は顔を上げない。
ただそのまま立ち上がって、恭弥の膝の上にゆっくりと跨がった。
「……おい、何して」
言いかけた言葉が、蒼の唇で塞がれた。
何度も短いキスを重ねる。
驚きで目を見開く。
その唇は震えていて、必死で、泣きながら縋るようだった。
泣いていて涙がキスを重ねる度に口に入ってくる、しょっぱい味。
恭弥は反射的に蒼の肩を掴み、優しく押し返した。
「やめろ、蒼」
「……イヤです」
小さな声。
そのまま、蒼はもう一度唇を重ねてきた。
今度は下唇を舐められた。
恭弥の手に力が入る。
だが抵抗するよりも早く、蒼が両手で恭弥の頬を掴んだ。
「……っ」
息が詰まる。
理性よりも、彼の体温と震えのほうが先に伝わってきた。
恭弥は蒼を突き放すこともできず、ただ目を閉じるしかなかった。
唇と、舌の柔らかい感触をただ感じるだけ。
数秒後、ようやく離れた唇の間から、浅い息がこぼれる。
蒼の頬には涙の跡がまだ残っていた。
「……どうして」
低く問う声。
恭弥は驚きと混乱のまま、蒼を見つめる。
「だって」
蒼は泣き笑いのような表情で、掠れた声を出した。
「さっきまで怖かったのに…いま、恭弥さんが優しいから」
その言葉に、恭弥の指が止まる。
ゆっくりと息を吸い込んで、蒼の頬に触れた。
「……馬鹿。そんな顔で、そんなことすんな」
「ごめんなさい」
「謝るな」
恭弥の声は震えていた。
優しいのに、どこか必死で。
蒼はそのまま、彼の胸に顔を埋めた。
抱きしめられなかった代わりに、
彼の手がそっと、蒼の背を包んだ。
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