湯上がった感情

二人で湯から上がっても、

部屋の空気はまだどこか冷たかった。

蒼は濡れた髪をタオルで拭きながら、恭弥の横顔を盗み見る。

いつもなら、ドライヤーを貸してくれたり、軽く声をかけてくれるはずなのに


今夜の彼は、何も言わずにただ自分の髪を乾かしていた。


ドライヤーの音が止んで、静寂が戻る。

そのまま寝室に向かってベッドの端に並んで腰かけたふたりの間には、距離があった。


「……蒼」

低く落ちた恭弥の声に、蒼はわずかに肩を動かす。それだけで返事はしなかった。


「料理、作ってくれてたのに。遅くなって、最低な態度まで取って……本当に悪かった」


恭弥の声は、静かに沈んでいた。


蒼は膝の上で手を組んだまま、視線を床から上げない。


「……そう思うなら、なんで電話一本くれなかったんですか」

「だから、仕事だった。」

「わかってますよ、でも、“一言”くらいは言えたでしょう、そんな時間すらなかったんですか?」

「……」

「僕、あの時間ずっと待ってたんですよ。ご飯も、温め直して、また冷めて、それがどんなに悲しいのかわかってますか?」


恭弥の指先がわずかに動く。

拳が膝の上で静かに握られた。


「悪かったって言ってる」

「僕は、寂しかったって言ってるんです」

「…だから謝ってるだろう」

「謝ればいいってもんじゃないです」


蒼の声が強くなった瞬間、恭弥の目がわずかに細くなる。胸の奥で何かが軋むようにきしんだ。


「……いつまで怒ってる」

「別に怒ってません」

「その顔で言うな」

「顔なんて関係ないでしょう!」

「ある。」

声が低く、鋭く響く。

蒼が思わずびくりと肩をすくめる。


「謝っても、機嫌ひとつ直らないのか」

「そんな簡単な話じゃないって言ってるんです!」

「……はぁ」


そのため息が、蒼の胸を突き刺した。

瞬間、瞳が大きく揺れる。


「僕がどんな気持ちで待ってたか、恭弥さんにはわかんないですよ……!」

「わかる努力をしてる!」

「してません!」

「……お前は、何をしてほしいんだ」

「そんなの……もう、わかんないですよっ」


ふたりの間に、深い沈黙が落ちた。

湿った空気が重くのしかかるように広がる。


恭弥は額に手を当て、息を吐いた。

「……もう寝ろ」

「命令しないでください」

「じゃあ勝手にしろ」


胸の奥が焼けるように重い。

「勝手にしろ」と言われたその言葉が、耳の奥で何度も響く。


(勝手にしろって、なんですか。)

もう勝手に扱われるのは嫌だ。


気づけば布団を押しのけて、ベッドから立ち上がっていた。

静かにドアへ向かい、キッチンの方へ足を運ぶ。

シンクの中の皿を洗って、カウンターを拭く。

どうでもいいような家事を、無心で繰り返す。

冷たい水で痛いほど指がかじかんでも、止められなかった。


少しでも動いていないと、涙が溢れて泣いてしまいそうだった。


「…何をしてる。」


突然、低い声が背中に落ちた。

振り返ると、寝室の扉の前に恭弥が立っていた。

目の奥が鋭く光り、頬には怒りと苛立ちの影。


「こんな時間に…なんでまだ起きてる」

「別に、何でもいいでしょう」

「よくない。」

声が荒くなった。恭弥が近づく。

「勝手にしろとは言った、だがそれは違うだろ」


「もうなんなんですか!勝手にさせてくださいよ、結局勝手にさせてくれないじゃないですか!」

涙がにじむ。

「恭弥さんの隣で寝るのは……今は、無理なんです!」


「……は?」

「“勝手にしろ”って言われて、どうして普通に隣で寝られますか!」

声が震えて、嗚咽が混じる。

「僕だって、そんな言葉ほしくなかった……っ」


蒼の目から、涙がぽろぽろと落ちる。

それを見て、恭弥は動けなくなった。

握りしめた拳が、小さく震える。


「……俺は」

低く、掠れた声。

「どうして……俺は、いつもこうなんだ」


静かな自己嫌悪が、言葉の奥に滲む。

「お前にちゃんと伝えたいのに…言い方ひとつ間違えて、傷つけて…」

息が詰まりそうなほど、苦しげだった。


恭弥は一歩、蒼のそばへ寄った。

「蒼」

呼ぶ声が、いつもよりも弱い。


「悪かった」

短く、しかし確かに。

「“勝手にしろ”なんて、言うつもりじゃなかった」


「……」


「これからは…遅くなる時は、必ず連絡する。

 何があっても、お前を無言で置いていくようなことはしない」


恭弥はまっすぐに蒼を見つめる。

その瞳の奥には、怒りも無かった。

ただ、痛いほどの誠意だけがあった。


「これからの俺の時間は、全部お前のために使う」

「……そんな、全部なんて」

「全部だ」

きっぱりとした口調で言い切る。


蒼は視線を逸らし、唇を噛んだ。

涙が頬を伝う。

「…そんなこと言われたら、もう怒れなくなるじゃないですか」


「今は怒ってていい」

「……」

「俺は、それでもお前を優先する」


しばらく沈黙が続いた。

蒼はゆっくりと手の甲で涙を拭い、

恭弥の横をすり抜けて寝室に戻る。


ベッドに腰を下ろし、何も言わずに布団に潜り込む。

許すなんて、一言も言わなかった。

ただ、恭弥が背後に立っている気配を感じながら、黙って横になる。


恭弥は数秒だけその背中を見つめ、それから静かに灯りを消した。

部屋は闇に包まれ、互いの呼吸だけが響く。


その音が、少しずつ近づいていくように感じられた。


言葉ではまだ届かない。

それでも、少しずつ、心だけは同じ方向へ動き始めていた。







恭弥は隣で静かに寝息を立てる蒼を見つめた。目を開けた瞬間、かすかに息を整えながら「おはよう」と声をかける。


だが蒼は、まるで聞こえなかったかのように布団を引き寄せて黙り込む。


しばらく沈黙が流れたあと、恭弥は苦笑して小さく息を吐く。

「……まだ怒ってるのか?」

それでも蒼は反応しない。顔をそむけたまま、まぶたを閉じている。


その頬に、恭弥が少し身を寄せた。

「口を利いてくれない奴にはこうしてやる」

囁くように言って、そっと蒼の頬に唇を触れさせた。


一瞬、蒼の身体がぴくりと動く。

その反応を見て、恭弥は思わず小さく笑った。

「やっぱりな、聞こえてた」


その一言で、蒼の表情がさらに険しくなる。完全に拗ねて、布団を頭まで被る。

恭弥は慌てるでもなく、むしろ楽しむようにその布団越しに話しかけた。


「朝ごはん、昨日のスープ残ってるけど、温めるか?」

「……」

「コーヒーがいいか?それとも紅茶?」

「…………」

「なぁ、蒼。無視すんなよ。せめてうんとかすんとか言ってくれよ、それですん、なんて言われても困るけどな…」


何を言っても反応はない。それでも恭弥はめげずに続ける。

「今日一日中ベッドで拗ねる気か?」

「…いい加減にしてください」

ようやく漏れたその小さな声に、恭弥の口元が緩む。


「やっと喋った」

「喋ってません」

「いや、今喋った」


そう言いながら、恭弥は蒼の頭を布団越しに軽く撫でた。

蒼はますます顔を隠すように布団を抱きしめる。


昨夜の苛立ちはまだ残っている。

けれど、その拗ね方が可愛いと思ってしまうのが恭弥らしかった。


少しの沈黙のあと、恭弥は穏やかな声で呟いた。

「……ごめんな。ほんとうに」


その言葉に、蒼の布団がわずかに動いた。

だが、それ以上はまだ何も返ってこない。



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