元彼

目に飛び込んできたのは、蒼の元彼だった。


その顔は、怒りと嫉妬が入り混じったものですごく怖かった。

蒼は思わず恭弥の背に隠れるように体を寄せた。

そんな蒼を見て元彼はさらに顔を歪め、


「はぁ?お前、もう次の新しい相手できたのか?っこの尻軽が…」

元彼は恭弥の横に立つ蒼を睨みつけ、続けて吐き捨てるように言った。

「それに…こいつ……あぁ、そうか、こいつはお前のパパだな?はは、金持ちそうだしっ」


蒼の顔は真っ青になった。


(や、やだ…失望される!)


心の中でそう叫び、必死に俯く。

実際、目の前で元彼が恥ずかしいほどの下品な侮辱を口にするたび、胸が張り裂けそうだった。


だが恭弥は冷静そのもの。

目を細め、低く静かな声で一言だけ放つ。


「この前のこと、忘れたのか?」


元彼はその言葉に一瞬固まる。そして恭弥の顔を見てすぐに

「あ、あ……お、お前は……あの……!」


恭弥の顔を思い出し、青ざめたように言葉を途切れ途切れにする。


蒼の横で、恭弥の目には深い怒りがあった。

その視線だけで、元彼はさらに言葉を失う。


「……もうたくさんだ。話にならん」

恭弥は静かに息を吐き、背を向けた。


元彼は残された蒼に向かって最後の毒を吐きつつ、言葉にならない怒りと焦燥を抱えながら、足早にその場から逃げていった。


蒼はまだ心臓をドキドキさせながら、失望されて捨てられないように、置いていかれないように恭弥の背にしがみつく。


元彼が去った後、夜道に静かな空気が戻る。


蒼はまだ肩を小さく震わせ、恭弥にぴったりと体を寄せていた。

「……あ、あの……」

小さな声で言うが、何を言っていいか分からず口ごもる。


だが、恭弥の表情は少し硬く、不機嫌そうに見えた。眉間に僅かな皺が寄り、口元はぎゅっと引き結ばれている。


「……」

恭弥が低く吐き捨てるように言う。

「最悪だ…」


蒼は一瞬、胸が跳ねる。

「……っ!」

自分に向けられたのか、それとも元彼に対して怒っているのか分からず、恐る恐る顔を上げる。


恭弥は眉間をさらに寄せ、

「……俺は怒ってるんだ。あんなクソみたいな奴が、お前に触れるようなことを言うのが許せない」


蒼はその言葉を聞いた瞬間、全身が固まった。

「…あ、…えっ、えっと……僕……?」

自分が怒られていると思い込んでいたから少し拍子抜けして、俯きながら小さく肩を丸める。

手も握りしめ、心臓がバクバクして呼吸も浅くなる。


恭弥はそんな蒼を見下ろし、ため息をつく。

「……蒼、俺が怒ってるのはお前にじゃない。お前の元彼…アイツが吐き散らしたことに怒ってるんだ」


蒼は耳まで真っ赤になり、なおも俯いたまま。

「……そ、そう……ですか……」

声はか細く、震えている。


恭弥は手を伸ばし、そっと蒼の顎を持ち上げる。

「わかるか? 俺はお前を責めてるわけじゃない。怖がるな」


蒼はその手の重みに少しずつ安心を覚えつつも、まだ縮こまったまま。

「ご、ごめんなさい……」

本当に悪いことをしたわけではないのに、怖くて、萎縮してしまう。


恭弥は軽く首を振る。

「謝るな。俺はお前を守ってるだけだ。分かってくれ。」


蒼は小さく息を吐き、やっと恭弥の言葉を受け止めることができた。

夜道の静寂の中で、二人だけの空気が少しだけ落ち着きを取り戻す。


そして蒼は、恭弥が自分のために怒ってくれたこと、守ってくれていることを、改めて胸に刻むのだった。






家に帰り着くと、恭弥は玄関で靴を脱ぐ蒼の肩をそっと見つめた。外の冷たい空気がまだ二人の体にまとわりついている。



「……怖かったな」



低く、穏やかな声。

その一言に、蒼の張り詰めていた心が一瞬で緩んだ。


「……っ」


堪えていた涙が、急に込み上げる。

目の奥が熱くなり、視界が滲んで、次の瞬間にはぽろぽろと大粒の涙が頬いっぱいに伝っていた。


「……っはや、かわさん……」

震える声でそう呼んだ瞬間、怖かったこと、恥ずかしかったこと、恭弥に迷惑をかけたと思い込んでいた不安。

全部が溢れて、止めようとしても止まらない。


恭弥は一歩近づき、無言で蒼の背を支えた。

その手は大きく、温かく、蒼の震えを受け止めるようにゆっくりと撫でる。


「……もう大丈夫だ」

静かに言う声が、胸の奥まで染みていく。


蒼はそのまま恭弥の胸に顔を埋め、泣きながら呟いた。

「…っう…ご、ごめんなさい……僕、また……泣いちゃって……」


恭弥は少しだけ息を吐いて、目線を落とす。

「泣くくらい、いいだろう。」

短く言って、蒼の髪を指先で軽く梳く。


しばらくそのまま静寂が続いた後、恭弥がぽつりと口を開いた。

「……蒼」

「……っ、はい……?」


「俺のこと、“恭弥”って呼んでくれ。」


蒼は一瞬、顔を上げて目を見開いた。

「……え……でも……」


「“早川さん”じゃ、距離があるだろう。」

その声には、怒りでも命令でもなく、ただ真っ直ぐな願いが滲んでいた。


蒼は少し口ごもりながら、唇を震わせる。

「……きょ、恭弥……さん……」

言葉にした瞬間、恭弥が僅かに目を細め、柔らかく息を吐く。


「それでいい。」


蒼の頬にはまだ涙の跡が残っていたが、その表情には少しだけ安堵の色が浮かんでいた。

恭弥の胸の鼓動を聞きながら、ようやく、怖さよりも“安心”が勝ったことを実感する。






蒼はベッドに腰を下ろしたまま、布団をぎゅっと抱きしめていた。

先ほどまでの出来事が、まだ胸の奥でざわざわと渦を巻いている。


それでも、不思議とあの名前が頭から離れなかった。

「……恭弥……恭弥さん……」

小さく呼んでみると、胸の奥が少しだけ軽くなる気がした。


「やっぱり、恭弥さん……好き、です。」


自分でも驚くほど自然に口から出ていた。

頬が熱くなって、慌てて口を押さえようとしたその瞬間


「それは本当か?」


低く落ち着いた声が、背後から響いた。


蒼の身体がびくりと跳ねる。

振り向くと、ドアの近くに恭弥が立っていた。

部屋の明かりが柔らかく彼の輪郭を照らし、静かな瞳がこちらを見つめている。


「い、い、い、いまのっ……聞いてたんですか……?!」

蒼の声が裏返る。恥ずかしさと動揺で、息が詰まった。

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