僕達は幸せに見えますか?

玉木木木

知らない腕の中

路地裏は、街灯の光が薄く伸びるだけの狭い世界だった。深夜でもない時間帯

ただ、人目の少ない時間帯。ビルの壁に貼られたポスターが風にめくれ、道に捨てられた缶が蹴られて小さな音を立てる。


蒼は、震えていた。蒼の細い腕に掴みかかる元彼の力はまだ残っている。話し合いのつもりで外に出したはずが、彼の言葉はすぐに刃になり二人の距離は崩れていった。元彼は蒼を自分の所有物のように扱い、蒼はそれを拒む言葉を口に出してしまった、反抗すれば彼がさらに怒るのはわかっていたのに。


「お前は俺の言う事を黙って聞いてればいいんだよ!」

元彼の声は低く、刃のようだった。蒼は必死で抵抗するが、力の差は明らかだった。蒼の腕に爪の跡が残り、胸が押し潰されるように苦しい。必死で叫ぼうとしても、周囲の騒音にかき消される。周りを通りがかった人達も面倒なことに巻き込まれたくないのか全員見て見ぬふりをしていた。



そのとき、黒いコートの男が角を曲がってくるのが見えた。背が高く、動きは静かだった。無表情で、だけどその立ち姿から確かな圧が伝わる。表情は微動だにせず、周囲の空気さえ変えてしまう。


目と目が合った。短い一瞬。蒼のほんのりと青が入った綺麗な瞳は赤く充血していて、必死さだけが残っている。その瞳が、無表情な男に刺さった。



男の動きは遅く見えたが、間合いは一瞬で詰められた。元彼は咄嗟に身構える間もなく、男に押されるように一歩引いた。男は声を出さない。言葉の代わりに、視線と強い体で相手を沈めた。

元彼は震え、逃げ出すようにして路地を去った。誰も追わない。そこにいるのは、冷静で逃げた元彼をただ見つめ続ける背の高い男と、息苦しい胸を押えて息を切らす蒼だけだった。


蒼は、ただ立ち尽くして胸を押さえ、息を整えようとする。腕が痛い。唇に血が滲んでいる。驚きと恐怖で、視界がぐらつく。

男は無言のまま、近づいてきた。手つきは荒くはない。むしろ、不器用に指先を動かして、けど丁寧な動きで、蒼の頬の血を拭う。彼の指先は冷たく、だけど確かに温度を宿していた。


「大丈夫か」

ようやく喋った男の声は低く、淡々としている。余計な装飾のない言葉。蒼は喉が詰まり、うまく答えられない。ただ、首を振ることしかできなかった。


「名前は?」

「……蒼、です」

蒼の声は震え、語尾が小さく消える。男はその名噛み締めるように何度も繰り返して呟いた。


蒼は、なぜか自分の名前なのにその声で聞く名前の響きに安心してしまった。無表情でいて、声には余裕がある。怖いはずなのに、心の奥のどこかが少しだけ緩む。



男はふと、路地裏に取り残されて震えてる蒼を見下ろした。傷つき、周りのもの全てに怯える彼を、このまま外に置いておくべきではない。

そう考え、なにか決めたように蒼に向かって


「行くとこ、ないんだろ」

その言葉に、蒼は驚いてしまった。なぜそんなことを……と思う前に、膝から力が抜けしゃがみこんでしまった。きっと、ずっと気を張っていたんだ、怖さと戦いながら、必死に立っていたから。

その疲れが、今、一気に押し寄せてきた。


しゃがみこんでさらに小さくなった背をただ見下ろす男の問に答えるために俯いたまま、どう答えればいいのか考えようとした。

少しずつ顔を上げる


その瞬間、目に入った男の表情に息を飲む。


無表情で、眉も動かさず、口元も硬く引き結ばれている。

ただそこにいるだけで重い圧力が伝わり、蒼は答えを口にするどころか、言葉を飲み込むしかなかった。


そんな蒼の様子を見て男は勝手に蒼の沈黙を肯定と判断して少しだけ屈んで手を差し伸べる。


蒼は震えながらも、拒否する力は残っていなかった。逃げ場のない路地裏、腕を引かれる方が、必死で立っているよりも楽に思えた。


男は一度だけ蒼の方を向き、それから蒼の小さくて細い頼りない肩を軽く掴んで歩き出す。歩き方は丁寧で確実。荷物も何もない蒼を、まるで預けるように腕で支える。



「変なことはしない」

男は、簡潔に言った。言葉に含まれるのは、脅しでもなく、優しさでもない単純な宣言。

ごく当たり前のように、彼はその約束を自らに言い聞かせるように付け加えた。

蒼は、その口調に戸惑いながらも胸が少しだけ落ち着くのを感じた。



家に向かう道すがら、蒼は男を横目で見る。無表情は変わらない。だけど、彼の横顔に浮かぶ輪郭は美しく、どこか守られている感じがした。男の背中は広く、夜の風を切るたびに蒼の不安を削いでいく。「怖い……見ず知らずの人について行くなんておかしい。」それは本音だ


頭では危険だと理解している。


だけど、膝の力は抜け、全身が自然と腕に委ねられてしまう。

元彼のもとで、いつも反抗できずに従っていた癖が、今の蒼にも残っていた。

体は逆らえず、心も完全には納得していないまま、気づけば隣を歩く背の高い男の長い足の歩調に合わせて頑張って足を運んでいた。


家に着くと、玄関の前で男が一度立ち止まった。ドアを開けると、空気は室内の暖かさを含んでいた。家具は整っていて、無駄がない。夜に余計な色を足さない、簡素で静かな空間だった。

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